戦国女士blog

戦国大好きな歴女子が、歴史探索をしてきた記事を載せてます(・∀・)

片桐且元の首塚と且元居館跡

場所は滋賀県長浜市高月 且元の首塚が高月に有るので行ってみた 高月駅の西側の路地裏を入った場所に塚はある 何故に首塚?且元は駿河で病死だと言われているのに不思議であった。ただ且元に関する資料は少なく事実病死かどうかはわかってはいない。 高月の…

武田信玄➖矢除石➖慈雲寺

場所は長野県諏訪です 信玄は慈雲寺の祖と言われる天桂上人を師としており 戦場へ行く時に慈雲寺に立ち寄って上人に戦勝の教えを請いました上人は境内の大きな石の上に立って「私を弓で射てみよ」と至近の距離から射かけさせたところ矢はすべて岩ではねかえ…

武田24将 秋山虎繁まくら塚と大将塚

場所は岐阜恵那です 秋山虎繁は武田方に寝返らせようと岩村城主である おつやの方を調略し 自分の妻としました (2人は恋に落ちたとも言われています)その事で岩村城は武田の手に渡り信長様の実子が人質として武田方に送られます身内の裏切り、大事な息子を…

おあむ物語 大垣城

戦国時代といえども、さすがに女性がいくさの前面に出て戦うということはめったにありませんしかし、血を見るのも怖い!と恐れるようなことは言っていられませんでした おあむは石田三成の家臣の娘で、慶長5年の関ヶ原の戦いのおり、石田方の大垣城に入りま…

旧浅井氏宅跡"長政の血を受け継ぐ者

この銅像 愛知県春日井市牛山町の名鉄線 間内駅東にありますなぜ長政の銅像がそこにあるのか! 話によると小谷城落城後 織田信長の命により長政の嫡男 万福丸は関ヶ原で秀吉の手によって殺されました 次男の万寿丸は まだ赤児だったので命を助けられ後に出家…

新加納の一夜城

場所は岐阜各務原新加納です一夜城と言えば有名なのは墨俣の一夜城である だが墨俣の一夜城が出来る一年前には既に新加納に一夜城が作られたのだ ここでの実績を得て墨俣一夜城は断行されたのである信長から稲葉城攻めの前線拠点として各務原台地の一角であ…

秀吉の正室寧々のルーツ(藤橋城)

場所は岐阜揖斐東杉原です藤橋は 秀吉の寧々のルーツであるという事で 藤橋城のある東杉原まで行ってきました地名を見てお解りの通り 杉原 そう寧々は 杉原一族の出やったんですねでも元は杉原って苗字ではなかったのです その経緯は話の途中で出てきます 杉…

信長の側室 生駒吉乃(久菴)の里

皆さんもご存知であろう吉乃(実の呼び名は久菴であるが ここでは吉乃と書きます)は信長様の側室です吉乃は生駒氏3代目家宗と岐阜大垣の西尾氏の長女との間に産まれた娘ですそんな吉乃の足取りを辿り以前愛知県江南へ行ってきました・信長様と吉乃との出会…

蒲生氏郷の生誕の地

場所は滋賀県蒲生郡日野村です 蒲生氏郷は今から460年程前に日野の中野城で蒲生賢秀の子として生まれ 幼名を"鶴千代"と言います 13歳の時に織田信長の岐阜城へ人質にだされました 氏郷の才能を見込んだ信長様は元服させ自分の娘冬姫と結婚させて日野へ帰らせ…

西美濃三人衆 稲葉一鉄の能面に纏わる不思議な出来事" (華渓寺)

岐阜の大垣にある稲葉一鉄の城 曽根城に行ってきました 今は天守は無く本丸には 一徹の母の菩提寺である華渓寺があります住職さんに とても面白い話を聞いてきました実はここ華渓寺には 稲葉一鉄の能面が保存されております その能面は 信長様を招いた時とか…

関ヶ原前哨戦!杭瀬川の戦い

場所は岐阜大垣市南一色町です 関ヶ原の戦い決戦の前日である9月14日 家康が赤坂の岡山本陣に着陣しますすぐさま金扇馬標を立て葵紋の旗と白旗を風になびかせて威勢を張ると、 20日間あまりも戦を今か今かと待ちわびて退屈で暇を持て余していた東軍の各陣地…

森長可にまつわる昔話 稚児岩

場所は土岐市駄知町滝ケ洞です不思議な出来事は戦国時代にも多々あります その1つとして こんな話が残っています(あらすじ)森長可の家臣の加藤彦右衛門が駄知に移って百姓暮らしをしていたこの夫婦には子供がなかったので いつも長可にもらった観音様にお…

信長様と蛇池

清洲城主の頃 信長は城下の村人から山田村の池に大蛇がでたという話を聞きました早速村人たちを集めて大蛇を退治するために池の水をかい出させました。見守る信長は池の水位がいっこうに下がらないのに業を煮やして自ら裸になり刀をくわえて池に飛び込みまし…

明智光秀との契り 明智孫十郎

場所は岐阜美山です明智孫十郎は旧姓を恩田といい 若かりし頃は武者修行をしながら諸国を渡り歩く浪人だったそうな同じく浪人をしていた光秀と意気投合し彼とある約束を交わす その約束とは「どちらかが立身出世したら もう一人を取り立てる」というもの織田…

藤堂高虎の三つ餅旗印の由来

高虎殿の旗印が何故餅なのか それを今からお話します※写真左が高虎の旗印 高虎が浅井家から出奔してその後主君を探し求め あてもなく東へ向かっていたその時 腹が減って吉田屋という餅屋で三河餅を食べまくっただが高虎は銭を持っていませんでも 自分の身の…

森部の戦い 前田利家復活劇!

場所は岐阜安八郡森部です 美濃に攻め込むキッカケを常に狙っていた織田信長斎藤道三亡き後に家督を継いだ義龍との争いが続く中 義龍が早々と亡くなってしまいます その事を知った信長は"これは我に天が味方したぞ"と義龍の息子である龍興が家督を継いだ矢先…

福島正則屋敷跡(高井寺)と 正則荼毘所跡 

場所は長野県上高井郡高山村です正則の墓所のある岩松寺で手を合わせ、その後 正則の屋敷跡と荼毘所跡に行きました屋敷跡は 高井寺になっている最初に屋敷跡に行った時、住職はお留守で誰も居らず断念をし、荼毘所跡に先に向かった。屋敷跡から400メートルく…

島津の為に戦い散った男 長寿院盛淳

大垣上石津の"琳光寺"にある長寿院盛淳の 御墓参りに行ってきました。 盛淳は島津義弘に仕えておりました。 関ケ原の合戦にて敗走の際、 鳥頭坂の退却戦で西軍が総崩れとなり、島津軍が敵中孤立してしまいます。意を決した盛淳は義弘から拝領した陣羽織と三…

朝倉義景の墓所と 義景の護持仏

この日は義景のお墓に手を合わせてから 義景が亡くなる前に匿われていた洞雲寺(東雲寺)に向かった 当時は大野城の南麓辺りに有ったと言われている 後に今の場所に変わったのだそう ご住職の奥様が出て来てくれてお話しをしてくれました この洞雲寺は朝倉家…

近江八幡城 豊臣秀次の手掛けた城下町

7月15日のその日は何だか朝からずっと秀次の事が頭の中に出て来ていたので、何でなのか不思議でしょうがなかった。 昼過ぎにネットで流れて来たのが秀次の事で、よく見てみたら7月15日が命日だというではないか!そう命日だったんです!そして秀次の八幡城の…

今川塚(供養塔)今川義元

清洲まで行き、信長様が今川義元の為に建てた義元の供養塔を見に行ってきました。最初に出向いたのは"正覚寺"!そこに義元の供養塔はある住職不在の為 奥様に話を聞いた 元は別の場所にこの供養塔はありました 正覚寺に移ったのは、元供養塔が有った場所のお…

豊国神社・太閤殿下の恩返し*太閤屋敷跡"

場所は岐阜海津市平田町小字です 立派な神社ではないですが由来はすごい昔話の中に出てくる ココにまつわる秀吉の物語です昔話の本から物語を一つ《太閤殿下の恩返し》平田町の者結(じゃけつ)には 太閤さん と言われる小字(こあざ)があり 「太閤さん」と…

藤堂高虎の出生地

場所は 近江犬上郡甲良町在士です 当時は藤堂村と呼ばれてました高虎の父は三井虎高で 母は藤堂忠高の娘・おとらである 名前を見る限り 虎に因んだ名前ですね(笑)父の三井虎高は若くして近江から甲斐の武田信虎の家臣となり「虎」の字を賜るほどの有能な武将…

仙石秀久"鈴なり武者

秀久は戸次川での大失態で長宗我部元親の息子 信親を死に追いやってしまいます その事で改易になってしまいますそんな秀久の返り咲いたきっかけを作ってくれたのは徳川家康である小田原討伐にむけ わずか20人もの兵を連れて戦に挑む!もう 自分には何も失う…

嶋左近 嶋氏館跡 (春日神社)

場所は滋賀県米原市です嶋左近の伝承として、居城は大和 西宮城の説があるが、近江の米原にも説があり嶋氏館跡がある嶋氏館跡は地名から飯村城とも呼ばれ、嶋秀安が飯村城主であった現在は春日神社となっているが、地図にも余り掲載されていないほど古い集落…

【乳母がふところ】岐阜城の戦い

織田信長の孫 織田秀信(三法師)の子供については未だ どうだったのか?と、ハッキリとした事はわかってはいない高野山を降りた後 子供を設けて子孫も居るとの話もあるが… どうなのでしょう そこで、ある伝説があるのでここでお話しをしましょう 昔 岐阜の…

仙石秀久の生誕の地 

場所は岐阜坂祝の黒岩です "仙石秀久''の生誕地に行ってきました今回で何回目なのだろう…何か情報は無いのか、何か少しでもわかればと向かったのはいいが… わかってるのは秀久の漫画"センゴク"にも出てくる黒岩神社だけだ。こうなったら役場に行って聞くしか…

戦国の国友鉄砲鍛冶師

場所は滋賀県長浜国友です "国友鉄砲の里資料館"に行ってきました。戦国時代と言えば火縄銃ですね!日本で最初に鉄砲が入って来た由来ですが、天文12年8月25日種子島の門倉岬に中国船が嵐の為に漂着、そこに乗っていたポルトガル人から始めて日本に二挺の鉄…

前田屋敷跡 前田慶次(慶次郎)

場所は岐阜県養老町祖父江です1600年 石田三成による関ヶ原の戦いとなると直江兼続と一緒に従軍して最上勢や伊達勢を相手に前田慶次は見事な戦いをしたと言われるここ祖父江には慶次が一時期住んでいたという伝承があるのだ関ヶ原合戦後家康の残党狩りを逃れ…

石山本願寺 顕如の息子教如の自画像

関ヶ原合戦に先立ち 教如は徳川家康支持を全面に打ち出します それを知った石田三成の恨みを買う事となりました教如は小山会議の後 先に京都に戻ろうとします その時石田三成派が美濃で待ち伏せ教如の暗殺をはかります 三成等に追われた教如は美濃に居る門徒…