戦国女士blog

戦国大好きな歴女子が、歴史探索をしてきた記事を載せてます(・∀・)

関ヶ原前哨戦!杭瀬川の戦い

場所は岐阜大垣市一色町です

関ヶ原の戦い決戦の前日である9月14日 家康が赤坂の岡山本陣に着陣します
すぐさま金扇馬標を立て葵紋の旗と白旗を風になびかせて威勢を張ると、 20日間あまりも戦を今か今かと待ちわびて退屈で暇を持て余していた東軍の各陣地では「決戦も間近に迫った」と、急に元気づいて士気があがります!
家康の着陣があまりにも早かったため西軍では全軍の士気が下がり勢いを無くしていました。そこで西軍である島左近は「今ここで一戦を開き、敵の機先を制し、勢いを示せば味方は動揺して統制乱れ不利になること必定、是非とも兵を出して敵を誘撃し、士気を挽回しよう」と言い自ら先頭に立ち出陣、杭瀬川を挟んでの小戦に持ち込んだ。これが前哨戦である杭瀬川の戦いである
島左近の陣頭指揮で大垣城から出陣した西軍は杭瀬川を前にして草むらや森に伏兵を配置した
赤坂岡山本陣の東麓に陣所を構えていた東軍の中村一栄や有馬豊氏らの部隊へ鉄砲を撃ちかけたり、田んぼの稲刈りをして敵を怒らせ挑発する誘引作戦に出ます
罠とも知らず つり込まれた東軍は、退却する敵を追撃し調子よく転戦し、遠くから眺めていた家康も大いに気を良くし、褒め称えた
ところが、中村隊の指揮官である野一色頼母らが前の日に降った雨で杭瀬川は増水していたので深追いせぬよう味方の兵を引き上げさせようとしたが、勢いに乗った全軍の耳には届かず川を越えて進撃した東軍は遂に西軍の伏兵に挟撃され、頼母は戦死し東軍は散々な目に遭いました
「大事の前の小事にかかるごとき兵を損するとは何事ぞ!」と家康は激怒し、井伊直政本多忠勝を叱りつけ直ちに引き上げさせました
(この時家康は親指の爪を噛み地団駄踏んで怒鳴りちらしたと言われています)
西軍も又、三成の家臣である林半助が殿をし見事に引き揚げます。これを見て家康は「敵ながらあっぱれ見事な働きぶり」と称賛。
西軍の勝ちとなりました
この戦で西軍は勝利に気を良くし、三成らは遮那院門前で首実検をしたといいます
古記録によると 大垣方よき首32取り、また雑兵首は石田の手へ84、浮田(宇喜多)の手へ64取りたり、これを杭瀬川の戦いという伝々、とあります
(参考資料より)

と、言う事で杭瀬川に行ってきました
家康が陣を構えていた岡山本陣から見ると南に当たる位置にあります
杭瀬川の川の流れる南に日吉神社があり そこが合戦地だと言われており 一応説明板は立ってました
その日吉神社の所から家康の岡山本陣跡はよく見えます
辺りを見回してみました 川の側面は湿地帯のようであり 草木が生い茂っています この状態があの時代と同じような感じであれば兵が伏せて待ち構える事は納得出来る!体が隠れるほどに生い茂っているのだから
川の幅は昔はもっと広がったのだろうと思われる ここを渡って頼母は戦死してしまったと思うと悲しさが募ります
杭瀬川を後に西軍が首実検を行った遮那院跡に行ってみた 大垣城から少し西へ行った辺りにその場所は有った 今は小さな墓地とお地蔵様があります 最近までは この辺りに首実検橋が本当に有ったのだそう😅
今はその名前でないのでしょう

そんなこんなで 前哨戦は西軍の勝利と終わりましたが まさか次の日に負けてしまうとは …

因みにこんな話が残っています
戦後、家康が言った言葉ですが「左近が生国対馬へ落ち延びたと伝えられるが、あっぱれ惜しい人物かな」と、これを意味する事は左近は生きていた って事になりますかな
さてはて(笑)

こんな感じで その後市役所で合戦図を手に入れ御満悦で帰宅するのでありました

 

読んで頂きまして有難う御座います😊

f:id:kaori3211:20200307075107j:image説明板

f:id:kaori3211:20200307074955j:image杭瀬川の合戦地に日吉神社があります
f:id:kaori3211:20200307074931j:image日吉神社から家康の岡山本陣跡を見る
f:id:kaori3211:20200307075020j:image堤防に登り杭瀬川の向こうにある岡山本陣跡を見る
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f:id:kaori3211:20200307075015j:imageこのように草が生い茂って湿地帯のようです
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f:id:kaori3211:20200307075006j:image首実検をしたと言われている遮那院跡です