戦国女士blog

戦国大好きな歴女子が、歴史探索をしてきた記事を載せてます(・∀・)

関ヶ原合戦 長束正家陣跡

西軍に与した正家
毛利秀元吉川広家と共にに南宮山(垂井町)に布陣し合戦前には浅野隊と南宮大社付近で交戦します。池田輝政と銃撃戦をしたが、広家の妨害のため、秀元や長宗我部盛親ら同様に本戦に参加できず、西軍が壊滅すると撤退します。このとき島津隊の撤退を助けるため道案内に家臣を遣わしたとも言われます。どんな時でも気遣いの出来る男だったようです。
もう少しどのような人だったのか説明します。正家は三成のように頭脳明細で秀吉の家臣として事務的処理、財政など様々な分野にて活動をしていました。九州平定や小田原征伐では兵糧奉行として兵糧の輸送、兵糧攻めなどで活躍し、頭の賢さを本領発揮しています。
家康がそれを見て自分の奉公衆に「奴を見習え」と、言い学ばせた程だったそうです。
槍働的には…どちらかと言えば功績は挙げておらず家臣に任せていたようです。この辺りは三成同様ですね…
本多忠勝の妹である栄子を正室に迎え、半右衛門助信が誕生しています。
関ヶ原戦場離脱後は自分の城であった水口城に戻ってこれたが、その後池田長吉によって本領安堵を約束するから城を明け渡すように言われ、承諾して城を明け渡たすと、約束は守られるどころか騙されて拘束され切腹させられてしまいます。正家39歳でした。首は三条橋に晒されました。
妻の栄子も同じく命を取られてしまうという悲しい最後でした。

その後、姫路城主となった池田輝政ら池田家の妻子に相次ぐ不幸が起こり、これを「長束正家の祟りだ」と言われたりと…

さてはて、その事実はいかに…

地味な武将ですが、地味に秀吉の力になり頑張ってきた武将です

 

今日も読んでいただきまして有難う御座いす😊

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