戦国女士blog

戦国大好きな歴女子が、歴史探索をしてきた記事を載せてます(・∀・)

柴田勝家の生誕地 下社城址

場所は名古屋市名東区です 団地の中です 今は明徳寺になっています柴田勝家は大永2年にここ下社城で生まれたといわれますが生誕地は下社城ではなく近くの一色城という説もあります柴田氏は斯波氏の一族で斯波高経四代の子孫が越後国柴田の城主であった事から…

石山本願寺 顕如の息子 教如の足跡を辿る

場所は 岐阜の揖斐です昨日は教如の自画像をお見せしましたので ここで教如の足取りを説明したいと思いますここ揖斐の山奥には教如上人の〔教如の里〕という所があるんですなんで こんな所に足跡を残したのか!それを今からお話しましょう 信長VS本願寺の戦…

古渡城 にて信長元服

場所は名古屋市中区です古渡の地は元々一女子という地名でした この地の由来は富豪の長女が嫁いだので一番目の女子という事で一女子と言う地名になり その後古渡となりました信長が登場する時代まではこの辺りには入り江があり 海部郡の方に行く人が海を渡っ…

今川義元の胴塚

織田信長と今川義元との"桶狭間の戦い"にて討ち取られた義元は織田方に首を持っていかれてしまいます 残された義元の胴体を家臣達が駿河に運ぼうとしますが腐敗が進み駿河までを断念 途中に有った大聖寺で胴体を埋める事にしました 何処に埋めたのかがわかる…

山本勘助の遺髪塚

別件の歴史探索で車を走らせていると、ふとある看板が目についた [山本勘助の墓]と書いてある 下調べなどは全くしていなかったのだが、これは行くしかない!と思い花屋を探したが正月だ流石にやってはいない。 ドラックストアに有ると思い探したが花市場も…

山本勘助生誕の地

山本勘助は八名郡賀茂村の山本光行の三男として産まれ幼名を源助と言った。祖父は賀茂神社の神官であった 勘助は15才の時牛久保城主牧野氏の家来である大林勘左衛門の養子となった。その為名を大林勘助貞幸と改めた 後に賀茂から牛久保に移り住んだという そ…

織田信長ゆかりの寺 円徳寺

場所は岐阜県岐阜市神田町です円徳寺と言えばTVでもよく紹介されているので有名ですいわゆる岐阜市の街中にあります元々この場所に円徳寺は有った訳ではありません 当時は上加納村長旗(現在の岐阜市長旗付近)にあった浄泉坊が前身といわれていますその長旗…

佐久間氏の城 御器所西城跡

場所 名古屋市昭和区御器所です 佐久間と言えば佐久間信盛を思い出しますが 織田家家臣には 他の佐久間氏もいました 御器所は その佐久間氏の居城となります御器所にて産まれた 佐久間盛政と言う人物についてお話ししましょう盛政の叔父は佐久間信盛 柴田勝…

人柱およしと善光寺 

郡上八幡城の改修工事で人柱となった"およし"の話は御存知でしようか? 改修工事に使われる材木を乗せた荷台が重く、何人もの男達が押しても全く動かなかった そこにおよしが加わると今からまであれだけ動かなかったのに、スイスイと動くではないか およしが…

池田恒興・元助 父子の墓所

岐阜の池田町には池田恒興とその息子の元助の墓があります 恒興の父 恒利は美濃池田氏の池田政秀に男子が出来なかったという事で政秀の娘である養徳院の婿として養子に入りました美濃池田氏を継いだのですねそして この2人の間に産まれたのが恒興でした 恒興…

信長様とこじき

関ヶ原の山中には常盤御前の墓と伝えられる碑が立っている織田信長が岐阜城に居る頃京都への上り下りにここを通ると、いつも道端に体の不自由なこじきが居た雨が降る日は雨に濡れ、風が吹く日は風に晒され同じ所に座っている信長は不思議がって村の者を呼ん…

大桑城のむかし話

山県郡の大桑に金鶏山という山がある、昔この板垣に大桑城というお城が建っていた ここに美濃国守であった土岐頼芸が逃げ込んできた斎藤道三に稲葉の城を追われたからである頼芸を一気に滅ぼしてしまおうと道三の軍勢は長良川を渡り金鶏山の南の麓にある栢野…

馬場信春(信房)教来石民部屋敷

場所は山梨県北杜市白州町鳥原です馬場美濃守信春の出自は美濃の土岐氏一族という説と武田氏一族という説の2つがあります土岐氏説は土岐光衡の子孫が教来石村に土着したという説ですここ山梨には土岐氏が美濃から武田を頼って行ったという話は多々あります …

"赤かべの城" 苗木城の昔話

苗木城にはこんな昔話が残っています 木曽川が左に曲がって渕がある底もわからない深い渕だ昔そこに竜がおった その竜を見た人がおると言うが、その人の話によればこうだ二日も三日も槍のような雨が降り続いて、それはやっと小雨止むと川の上に霧が立ち込め…

武田信玄公終焉の地

場所は長野県下伊那郡根羽村横旗です 三河攻めの折り信玄公は三河の野田城攻撃中に肺肝を患い根羽村で最後を迎えたと言われています ここに信玄塚があり村人にはそのように伝わっている事も確かです 『甲陽軍艦』53歳で天正元年 4月12日 三河 美濃 信濃三ヶ…

典厩寺 武田典厩信繁の墓所

場所は長野県長野市篠ノ井です 川中島の合戦の際、武田信玄の弟である武田信繁はこの寺を典厩本陣として出陣したが、この激戦の中、兄信玄の危機を救う為、自らの名を大声で名乗り敵陣に討ち入ったと伝わってます「わたしの事は心配なさるな、それよりわたし…

古田織部の織部焼を探索

場所は岐阜土岐市です古田織部と言えば産まれは美濃国(岐阜の本巣)の山口城です本名は古田重然(しげなり)と言います織部の父は茶人であったのだが 織部自身は茶に興味が小さい頃から有った訳ではなく、どちらかと言うと嫌っていたとも言われます。本格的…

武田信玄の御遺骨(龍雲寺)

場所は長野県佐久市です佐久市にある西念寺の仙石秀久の墓参りをした時に御住職が「武田信玄のお寺ありますよ!」って龍雲寺さんを教えてくれました 西念寺から歩いて7分くらいの場所に龍雲寺さんがあります 思わずビックリ!勿論家紋は武田菱!さて中に入っ…

"八幡神社⛩"秀吉の安産祈願所

豊臣秀吉が秀頼誕生の際に安産祈願した神社です。 ここにある菩薩杉は秀頼が産まれだ御礼に植えたと伝えられ、地元では「豊公菩薩大杉」と、言われています なかなか子供の出来なかった秀吉からしたら、1人目を病気で亡くし、2人目が出来て、どうか無事に産…

犬千代[前田利家]生誕の地を巡る(速念寺)

場所は名古屋市中川区ですまず向かったのは利家が産まれたと言われる前田城(速念寺)です本堂をよく見てください! 実は利家の兜をデザインされて建てられました まさに利家の兜‼︎いつ頃建てたのかご住職に聞くと1964年の東京オリンピック後で 以前の本堂は…

"春日神社"石田三成の祈願所

場所は滋賀県米原市世継 慶長5年、石田三成が挙兵して美濃に出立する際、この春日神社で戦勝祈願をし一株の藤を自ら植えたと伝わる又、三成の家紋である"下り藤"もここからのものだと考えられる 参拝者用の駐車場は無いので 近くに世継会館があるので、そこ…

"春照八幡神社"三英傑の勝利の神様

場所は滋賀県米原市春照です 姉川合戦の前に織田信長の徳川家康が戦勝祈願賤ヶ岳の戦い前に羽柴秀吉が戦勝祈願した場所です 三英傑が戦勝祈願をし戦に勝っている! ここは凄い神社だよ⛩

"信玄公はここで終焉したのか…"福田寺

場所は愛知県設楽町田口です信玄公の終焉の地の場所は何箇所か有りハッキリとはわかってはいない その中の一つに福田寺があるその福田寺に行き話を聞いてきました 元々福田寺は信玄公の宿泊地であり、戦が有ると、ここによく宿泊していたのだそうだ そんな折…

関ヶ原合戦 長束正家陣跡

西軍に与した正家毛利秀元と吉川広家と共にに南宮山(垂井町)に布陣し合戦前には浅野隊と南宮大社付近で交戦します。池田輝政と銃撃戦をしたが、広家の妨害のため、秀元や長宗我部盛親ら同様に本戦に参加できず、西軍が壊滅すると撤退します。このとき島津…

福島正則の足跡を辿る

場所は愛知県あま市甚目寺です 猛将と言われた男 福島正則 豊臣家に仕え 数々の武功を挙げてきました どんな時でも秀吉 秀頼の事を想い人生を賭けてきましたそんな正則の産まれし場所に行き 足跡を追ってきました 父は市兵衛正信 母は秀吉の叔母にあたる人で…

前田利家出世の地を巡るpart2➖荒子城

場所は愛知県名古屋市中川区荒子です 利家はここで生まれたとされていますが 出世の地については前田城説もあるのでハッキリとはわかってはいません 幼少期をここで過ごしていたとは言われていますのちに利家の嫁となる お松であるが尾張沖ノ島村(愛知県あ…

浅井長政 浅井氏の墓所(徳勝寺)

場所は 滋賀県長浜です前回行った時は御住職お留守でしたので 今回はどうかな?思って行ったらおりました(笑)早速お話しを聞くお墓は 浅井亮政 久政 長政が並んであります まずは御参りその後本堂に案内されて長政の生い立ちを話していただきました。とても…

森蘭丸・坊丸・力丸の供養

蘭丸の資料を買った時に気になる場所があり そこへ以前に行ってきましたある森蘭丸の資料の中にこう書いてある妙向尼(蘭丸の母)は本能寺で亡くなった最愛の三人の息子の弔いを兼山城北東の可児郡伊岐津志村中野(現 加茂郡八百津町西津)に一目千本卒塔婆…

大谷吉継の聞き取り調査

以前に紹介した もう一つの吉継殿の首塚について 身辺調査してきました 以前に紹介したblog↓ https://rekijoshi.hatenablog.com/entry/2020/01/10/232707 関ヶ原から揖斐の春日村に抜ける峠にある吉継の首塚 春日に下った所には古屋という村があるそこに居る…

郡上八幡城に纏わる伝説

郡上八幡城の伝説と言えば "およしの人柱"ですが まだ他にも伝説が残っています "力石伝説"八幡城主の遠藤慶隆が八幡城復帰後に八幡城を改修した節に、城下吉田川から人夫が川原石を背負い上げたといわれますその中で剣村(現大和町)の通称赤髭作兵衛なる者が…