戦国女士blog

戦国大好きな歴女子が、歴史探索をしてきた記事を載せてます(・∀・)

石山本願寺 顕如の息子 教如の足跡を辿る

場所は 岐阜の揖斐です
昨日は教如の自画像をお見せしましたので ここで教如の足取りを説明したいと思います
ここ揖斐の山奥には教如上人の〔教如の里〕という所があるんです
なんで こんな所に足跡を残したのか!それを今からお話しましょう

信長VS本願寺の戦いも10年あまりに及んで 朝廷が和睦に入りますが 信長が再度本願寺の寺の土地の明け渡し等 厳しい条件を突付け来た為 教如上人の父親はこの条件を受け入れ 石山本願寺を退却し和歌山県の鷺の森に本願寺を移転しました
が 、信長に反発した教如上人は一時石山本願寺に篭城したが 信長に攻撃され やむなく退却させられます
その後教如上人は従者数名と共に関東に出向きました
その際佐和山城に立ち寄った際石田三成教如上人の思惑がわかっていたから強く引き止められたが教如上人は聞き入れず出はなった為 三成は家臣に命じて後を追ったが捕まえられなかった 
やがて家康に合い用を済ませた教如上人に家康は名馬を送り尾張までの安全を手配してやった
間もなく美濃に入るとここは戦場で西方寺(羽島市)に転がり込む 途中墨俣の渡し場あたりで帰還を知った三成方の襲撃に会い門徒衆総出で鍬や鋤で上人を守り安八郡の光顕寺に匿い本堂のしゅみ壇の下に隠れ(遺句現存)かろうじて逃げられた ここを出た上人の一行は西円寺 (現在の大垣市)に入るが三成に追われ上人は逃げた
今度は池田町の正光寺 正法寺へとたどり遍光寺(春日村下ケ流)明隋寺(同村香六)へと逃げ回ったが三成は容赦なく百余人の兵を出し 神社や民家をくまなく捜査する 教如上人は この頃春日村美束付近をさまよっていたが捜索が厳しく 美束から西の尾西村の国見岳の中腹にある岩窟に身を隠す(現在の教如岩)教如上人を数日間この岩窟に隠れ村人達の捧げる粗食で命をつないだのである1600年9月15日ようやく受難続きの上人に 三成が関ケ原で敗れた と言う朗報が飛び込んできたのである 
尾西村で しばらく休養した後 国見峠を越え近江長浜から京都にたどり着いたのである
[参考資料より]

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🦋教如上人御清水潤いの泉
逃げ惑う教如が途中で喉を潤したと言われる清水ですf:id:kaori3211:20210112101107j:image
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🦋偏光寺 教如上人御足跡石
逃げる教如が 道も狭く馬では行けない場所に来た時 馬から降り わらじを脱ぎ路傍の石に右足を下ろした時 その石に足の跡がはっきりと残ったと言う事で この寺に保存f:id:kaori3211:20210112101142j:image
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🦋西蔵教如上人 肖像画作成場
匿ってくれた村人への感謝の気持ちを込め 自分の姿を池に映し それを見て肖像画を描いたと言われてます
もう池はありませんでした…f:id:kaori3211:20210112101214j:image
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🦋教如岩(鉈ケ岩屋)
教如上人は この岩で姿を隠して数日過ごしたそうなf:id:kaori3211:20210112101229j:image
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