戦国女士blog

戦国大好きな歴女子が、歴史探索をしてきた記事を載せてます(・∀・)

織田信長公の首塚 (西山本門寺)

場所は静岡県富士宮です
本能寺の変での信長公の遺体はどこへ⁇その謎に迫ってきた
実は静岡県富士宮には信長公の首塚がある 本能寺直後に信長公の首がここへ持ち運ばれたのだ〔と、説がある〕

・少し 説明をしますね
この西山本門寺と信長公との結びつきは古くから地元では信長公の首塚が本堂奥の大柊のもとに安置されているということが口伝としてあった
その根拠となったのは第18代日順上人の過去帳の旧暦6月2日の『惣見院信長』の記述で以来寺では歴代上人の口伝で信長公を供養してきました
ここで重要な役割を果たすのが本能寺の変で信長様と一緒に死んだ原一族が残した「原家記」である
原志摩守が混乱の中から父と兄が 信長公の首を持ち出し山道伝いに駿河に辿り着き富士郡本門寺の本堂裏手に三つの首を埋めたと記されている
状況証拠となる過去帳有りとされる
日順上人は「原家記」を残した原一族の出である しかも原一族は西山と仏縁があると記載されている
もう一人の人物本因坊算砂(日海)は京都寂光寺本因坊の住僧で信長公の囲碁の先生である
本因坊算砂も ここ本門寺との関わりが深い
寺伝によれば本能寺の変当日 信長公の供をしていた原志摩守が本因坊算砂の指示によりこの寺に運んで供養したのだという
変の前夜に信長公が算砂と鹿塩利賢に囲碁の対局をさせていたことはよく知られているが、算砂は翌朝まで本能寺に留まり戦乱に巻き込まれたのだろう そして信長公の死を知り原志摩守に首を西山本門寺まで運ぶよう命じたのだと説明している
二人にとってこの寺がなじみ深いものであったことは算砂が本門寺の境内に本因坊という坊舎を作って住んでいたことや原志摩守の子 日順を弟子とし寺の第18代上人としていることからもうかがえる
寺には日順の自筆過去帳があり それには『天正十年六月、惣見院信長、為明智被誅』と記されている 誅するとは一般的には上位の者が罪ある者を成敗する場合に用いる言葉である
日順上人は慶長七年の生まれだから変の当事者ではないが師の算砂から事情はつぶさに聞いていたはずである〔資料参考にてまとめ〕
信長の首塚は本堂の斜め後ろ戌亥の方角(北西)に柊を墓標にして土饅頭を築いて墓とし 信長公の首は今も約3メートル下の土中に眠っているとされる
墓標となった柊は大きく成長して昭和31年に静岡県の天然記念物に指定された
現在樹齢4百~5百年と診断されており信長の死期と一致する

ちなみに この寺内には 幾つかの寺が存在をする その一つに〔妙圓坊〕がある 実は このお寺 家紋が武田菱‼︎住職に話を聞く
歴代住職がなんと 武田信玄の従兄弟であり その名前は 妙圓坊(法名)で そのまま お寺の名前になってます
 こんな所で武田信玄公が出てくるとは思わなくてビックリです
因みに妙圓坊のご住職にも信長様の話を聞いてみた やはり過去帳に信長公の首の事が書いてあると言われました

信長の遺体についてだが 本能寺の変で信長の家来の者が信長様の遺体を焼き隠そうとしていたのを阿弥陀寺の住職が持ち運び埋葬したと話がある 

だが首だけは もしかしたらこの西山本門寺に持って来てるのかもしれない そう考えられなくもない 首だけはなんとしても光秀に渡してはならぬのだから いち早く見つからないようにしなければなりません

これは、あくまで私の推測にです

真実はいかに!

読んで頂きまして有難う御座います😊

2018年7月撮影

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f:id:kaori3211:20200209075542j:image信長様の首が埋められてる柊の木です
f:id:kaori3211:20200209075524j:image妙圓坊
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