戦国女士blog

戦国大好きな歴女子が、歴史探索をしてきた記事を載せてます(・∀・)

柴田勝家の生誕地 下社城址

場所は名古屋市名東区です 団地の中です

今は明徳寺になっています
柴田勝家は大永2年にここ下社城で生まれたといわれますが生誕地は下社城ではなく近くの一色城という説もあります
柴田氏は斯波氏の一族で斯波高経四代の子孫が越後国柴田の城主であった事から【柴田】姓を名乗り尾張にやってきてこの地を拠点としました
この柴田重勝という人が、勝家の祖父(もしくは父)といわれている人物です
下社城にはかって勝家が初陣の時に手植えした松があり出陣する時に次の句を詠んで母に渡したという話が残っています

『初陣に 松一本手植えして 負ければ墓地のしるしとやせむ』

勝家の初陣の時の年齢 戦場 対戦勢力 結果など不明ですが 後に武名を轟かす彼らしい一句です

そんな下社城址は現在名東区陸前町にある明徳寺になっています
寺の入口にある愛知懸の石碑 下社城址と書かれています

入口の階段を登っていくと柴田勝家公誕生地の石碑と案内看板もありました
この看板を見ると、勝家の生誕年は享禄三年になっており諸説がある事がわかりますね
【張州府志】という資料によると下社城址は江戸時代には田んぼになっていた様で この時すでに遺構は残っていなかった様です
現在も明徳寺の入口に石碑2つと案内看板が建っているだけですが、その立地が城址を偲ばせています
柴田勝家は全国区の有名な戦国武将ですが愛知県内にはゆかりの史跡が少ないです

f:id:kaori3211:20210114080929j:image
f:id:kaori3211:20210114080926j:image
f:id:kaori3211:20210114080939j:image
f:id:kaori3211:20210114080944j:imageまるでお城のよう
f:id:kaori3211:20210114080948j:image
f:id:kaori3211:20210114080934j:image

石山本願寺 顕如の息子 教如の足跡を辿る

場所は 岐阜の揖斐です
昨日は教如の自画像をお見せしましたので ここで教如の足取りを説明したいと思います
ここ揖斐の山奥には教如上人の〔教如の里〕という所があるんです
なんで こんな所に足跡を残したのか!それを今からお話しましょう

信長VS本願寺の戦いも10年あまりに及んで 朝廷が和睦に入りますが 信長が再度本願寺の寺の土地の明け渡し等 厳しい条件を突付け来た為 教如上人の父親はこの条件を受け入れ 石山本願寺を退却し和歌山県の鷺の森に本願寺を移転しました
が 、信長に反発した教如上人は一時石山本願寺に篭城したが 信長に攻撃され やむなく退却させられます
その後教如上人は従者数名と共に関東に出向きました
その際佐和山城に立ち寄った際石田三成教如上人の思惑がわかっていたから強く引き止められたが教如上人は聞き入れず出はなった為 三成は家臣に命じて後を追ったが捕まえられなかった 
やがて家康に合い用を済ませた教如上人に家康は名馬を送り尾張までの安全を手配してやった
間もなく美濃に入るとここは戦場で西方寺(羽島市)に転がり込む 途中墨俣の渡し場あたりで帰還を知った三成方の襲撃に会い門徒衆総出で鍬や鋤で上人を守り安八郡の光顕寺に匿い本堂のしゅみ壇の下に隠れ(遺句現存)かろうじて逃げられた ここを出た上人の一行は西円寺 (現在の大垣市)に入るが三成に追われ上人は逃げた
今度は池田町の正光寺 正法寺へとたどり遍光寺(春日村下ケ流)明隋寺(同村香六)へと逃げ回ったが三成は容赦なく百余人の兵を出し 神社や民家をくまなく捜査する 教如上人は この頃春日村美束付近をさまよっていたが捜索が厳しく 美束から西の尾西村の国見岳の中腹にある岩窟に身を隠す(現在の教如岩)教如上人を数日間この岩窟に隠れ村人達の捧げる粗食で命をつないだのである1600年9月15日ようやく受難続きの上人に 三成が関ケ原で敗れた と言う朗報が飛び込んできたのである 
尾西村で しばらく休養した後 国見峠を越え近江長浜から京都にたどり着いたのである
[参考資料より]

f:id:kaori3211:20210112101302j:image
f:id:kaori3211:20210112101258j:image

🦋教如上人御清水潤いの泉
逃げ惑う教如が途中で喉を潤したと言われる清水ですf:id:kaori3211:20210112101107j:image
f:id:kaori3211:20210112101110j:image

 

🦋偏光寺 教如上人御足跡石
逃げる教如が 道も狭く馬では行けない場所に来た時 馬から降り わらじを脱ぎ路傍の石に右足を下ろした時 その石に足の跡がはっきりと残ったと言う事で この寺に保存f:id:kaori3211:20210112101142j:image
f:id:kaori3211:20210112101139j:image
f:id:kaori3211:20210112101145j:image

🦋西蔵教如上人 肖像画作成場
匿ってくれた村人への感謝の気持ちを込め 自分の姿を池に映し それを見て肖像画を描いたと言われてます
もう池はありませんでした…f:id:kaori3211:20210112101214j:image
f:id:kaori3211:20210112101209j:image
f:id:kaori3211:20210112101219j:image

🦋教如岩(鉈ケ岩屋)
教如上人は この岩で姿を隠して数日過ごしたそうなf:id:kaori3211:20210112101229j:image
f:id:kaori3211:20210112101236j:image
f:id:kaori3211:20210112101233j:image

 

 

古渡城 にて信長元服

場所は名古屋市中区です
古渡の地は元々一女子という地名でした この地の由来は富豪の長女が嫁いだので一番目の女子という事で一女子と言う地名になり その後古渡となりました
信長が登場する時代まではこの辺りには入り江があり 海部郡の方に行く人が海を渡って行き来をしていました しかし この渡しも信長が開拓の為に入り江を埋め立てた為に無くなったそうです
信長の父 信秀は 天文3年に当地に平城の古渡城を築城しました 城は140メートルあり南北に100メートルある造りで 二重の堀りを巡らせた強固な城だったそうです そして信秀は那古野城から 古渡城に移り 那古野城を織田吉法師(信長)に譲りました この地に城を建てた理由は 古渡は海が近く交通の便が良い事と 織田家の重要拠点である那古野城の備えとして城を築く必要があったという事からでした
古渡に本拠地が移ってから12年後の天正15年 信長は13歳で元服をしました そして翌翌年の17年 この城で信長は 美濃のマムシ 斎藤道三の娘である帰蝶濃姫)と結婚します 勿論 政略結婚でした

天正16年 道三と信秀との戦いで信秀は美濃の大垣城の救援に向かう最中に同族で主君である織田達勝に町口を焼かれる事件が起きます この事に危険を感じた信秀は翌年に末盛城を築城して本拠地を移しました
信長は少しの間は古渡城に留まりましたが 尾張平定戦で清洲城を攻略すると拠点を清洲に移し古渡城は廃城になりました
〔参考資料あり〕

古渡城が廃城になった後 今の東本願寺が建てられら事になります

本願寺の寺門をくぐって左を見ると 古渡城と書いた石碑と説明板があります 今は城の面影はありません
本願寺自体はとても立派なので それを見るだけでも価値はあります

 

f:id:kaori3211:20210109080709j:image
f:id:kaori3211:20210109080704j:image
f:id:kaori3211:20210109080714j:image

 

今川義元の胴塚

織田信長今川義元との"桶狭間の戦い"にて討ち取られた義元は織田方に首を持っていかれてしまいます
残された義元の胴体を家臣達が駿河に運ぼうとしますが腐敗が進み駿河までを断念
途中に有った大聖寺で胴体を埋める事にしました
何処に埋めたのかがわかるようにと手水鉢をその場所の上に置いたのです
その後、義元の息子氏真は大聖寺にて三回忌を行い御墓を立てたと言われます

御墓の一番下を見るとわかりますが手水鉢です

今川義元ここに眠る
どうか安らかに

大聖寺
🗺豊川市牛久保町岸組66

f:id:kaori3211:20210104134229j:plain
f:id:kaori3211:20210104134252j:plain
f:id:kaori3211:20210104134232j:plain
f:id:kaori3211:20210104134256j:plain
f:id:kaori3211:20210104134225j:plain御墓の下は手水鉢です
f:id:kaori3211:20210104134248j:plain

山本勘助の遺髪塚

別件の歴史探索で車を走らせていると、ふとある看板が目についた
山本勘助の墓]と書いてある
下調べなどは全くしていなかったのだが、これは行くしかない!と思い花屋を探したが正月だ流石にやってはいない。
ドラックストアに有ると思い探したが花市場も休みだからやはり無かった。仕方ないのでお酒を買い御墓に向かった。
そこは"長谷寺"という御寺だった

"長谷寺と勘助"
甲斐に出かけるにあたり勘助は、以前から親しく世話になった長谷寺に住む和尚に会いに行った。武士としていつ死ぬかわからない自分の命を仏門に祈りを込めて自ら髪を切り、襟にかけてた御守りの摩利支天と共に和尚に託し「道鬼入道、道入斉」と名乗る事をお願いして甲斐国を目指して出発した。勘助45歳
勘助と初めて対面した武田信玄は居並ぶ重臣の前で沢山の禄高を与え、更に自分の名前の一字を与え勘助晴幸と名乗る事を命じた
勘助は信玄の為なら命を捨ててでも奉公しようと心に決めた
勘助は軍略にも優れ記憶力も凄かった。長い修行と勉強のおかげで城を築く術も心得ていた
海津城高遠城小諸城などを修改築したといわれます
こうして勘助は信玄の片腕となり武田24将の一人となりました
その後川中島の合戦が12年間も続き勘助はこの戦いで何度も素晴らしい作戦を立てたが惜しい事に戦死を遂げた
勘助の死を知った長谷寺の和尚は勘助の死を痛み遺髪を埋め墓を立てた

その時の御墓がこの遺髪塚である

どうか安らかにf:id:kaori3211:20210103104658j:plain
f:id:kaori3211:20210103104703j:plain
f:id:kaori3211:20210103104707j:plain
f:id:kaori3211:20210103104715j:plain
f:id:kaori3211:20210103104711j:plain

山本勘助生誕の地

山本勘助八名郡賀茂村の山本光行の三男として産まれ幼名を源助と言った。祖父は賀茂神社の神官であった

勘助は15才の時牛久保城主牧野氏の家来である大林勘左衛門の養子となった。その為名を大林勘助貞幸と改めた

後に賀茂から牛久保に移り住んだという

それから10年経ち元々武芸を好む勘助は多くの武士がするように武者修行に出る

立派な武士になるには武者修行が必要だった

勘助は剣士の道場の門を叩いては修行に励んだ

高野山に登り摩利支天堂に籠って武術の上達を祈願し、摩利支天の仏を襟にかけ御守りにし四国、九州、山陽、山陰の各地を巡り毛利氏や尼子氏に仕えた

勘助の武者修行は10年続き、その間75ヶ所の傷を負ったといわれる

35才になった勘助は牛久保の大林家に戻ったが勘左衛門には男の子が産まれていた。その為勘助は勘左衛門と親子の縁を切り、姓を再び山本に戻した

そして今度は関東に修行に出た。勘助は背が低くすが目で体の各所に負傷していて手足が不自由なうえに色が黒いという醜い男であった。その為武将に次々断られ結局最後に武田信玄に仕える事のなりました

(賀茂村のあゆみより)

 

豊橋市賀茂村には山本勘助が生まれたと言われる山本屋敷跡地があり、そこに"山本晴幸生誕地"と書かれた石碑が立てられている

山本勘助晴幸と勘助は言います)

勘助が生まれ場所については駿河国富士郡山本村にも有るのでここなのか?とハッキリとは言いきれない

だが賀茂村にある山本屋敷跡から西に少し行くと"本願寺と言う山本勘助菩提寺が有り、そこには勘助の御両親の墓がある

そう考えると賀茂村が有力ではないかと思うのだが…

駿河国富士郡山本村も言ってみないたわからないので今後の課題である

 

場所 豊橋市賀茂町🗺

f:id:kaori3211:20210102163330j:image
f:id:kaori3211:20210102163339j:image
f:id:kaori3211:20210102163335j:image
f:id:kaori3211:20210102163342j:image山本晴幸生誕地

 

 

 

 

織田信長ゆかりの寺 円徳寺

場所は岐阜県岐阜市神田町です
円徳寺と言えばTVでもよく紹介されているので有名です
いわゆる岐阜市の街中にあります
元々この場所に円徳寺は有った訳ではありません 当時は上加納村長旗(現在の岐阜市長旗付近)にあった浄泉坊が前身といわれています
その長旗は円徳寺からも歩いてすぐの場所にあります 今は何も残っていないので この場所に建っていたのですよ!とはハッキリとは言えません…
今円徳寺に残されている物としては ・織田塚 ・かみきり塚 ・信長の陣鐘・楽市楽座の制札・織田秀信の烏帽子兜・織田秀信肖像画である

・織田塚
天正16年に織田信秀(信長の父)が斎藤道三を攻め 円徳時の東方で道三の挟み撃ちにあい大敗しました 犬山城主の織田信康以下5千人の織田軍の戦死者を葬ったのが織田塚です

・かみきり塚
関ヶ原の戦いで西軍についた織田秀信(信長の孫)が落城後 円徳寺で剃髪し高野山に入りました その時髪を納めて「かみきり塚」としました 秀信は遺品として"烏帽子形兜"と"肖像画"などを円徳寺へ預けていかれました

・円徳寺の鐘(織田信長の陣鐘)
信長が稲葉山城斎藤龍興(道三の孫)を攻めた時に使った陣鐘です その陣鐘と本陣の地を円徳寺に寄進し長旗にあった円徳寺(浄泉坊)を 現在の神田町に移転させました

楽市楽座
楽市楽座とは自由交易市場の事で 商工業を盛んにする為市場での税を免除したりして 誰でも自由に商売が出来るようにしたものです 岐阜に入場して織田信長が円徳寺の門前に形成されていた寺内町の特権を保証した制礼で信長の花押があります

ここに出てくる織田塚ですが 元は違う場所にあり 今は円徳寺に移されています TVで円徳寺に移される前の織田塚の有った場所を紹介をしていましたが TVで紹介された場所に本当に有ったのか!?って謎を私は抱いています
実は岐阜市には織田塚町という地名の場所があり そこは円徳寺から東に2キロ程の所なんです 円徳寺から東の辺りで信秀と道三との戦いが起きている 織田塚町の辺りが まさにそうなのではないのか!
勿論この場所はTVでも雑誌にも紹介されてはいない むしろ知らない人がほとんどである
何度もこの辺りを色々探ったが今は塚が有った形跡は無かった だが地名だけは残っている…
結論からして ここ織田塚町で戦が起きて ここに織田塚が作られた信憑性は高いのである
あくまで私の推測だが…
織田塚町の有る辺りから北を見ると直ぐ山があり岐阜城が有る そこから織田信秀は攻めようとしていたのであろう

ま、こんな感じである

円徳寺で聞きましたが秀信の鳥帽子や肖像画は公開日以外は見れないそうです。明智光秀を巡る旅のついでに鳥帽子の公開日に合わせて来ると良いですよ

f:id:kaori3211:20210101200013j:image
f:id:kaori3211:20210101200017j:image
f:id:kaori3211:20210101200024j:image織田信長の陣鐘
f:id:kaori3211:20210101200029j:imageかみきり塚
f:id:kaori3211:20210101200004j:image織田塚
f:id:kaori3211:20210101200009j:image
f:id:kaori3211:20210101200036j:image