戦国女士blog

戦国大好きな歴女子が、歴史探索をしてきた記事を載せてます(・∀・)

福島正則の足跡を辿る

場所は愛知県あま市甚目寺です

猛将と言われた男 福島正則
豊臣家に仕え 数々の武功を挙げてきました どんな時でも秀吉 秀頼の事を想い人生を賭けてきました
そんな正則の産まれし場所に行き 足跡を追ってきました

父は市兵衛正信 母は秀吉の叔母にあたる人で 正則の幼名は市松と言いう
幼少期は甚目寺観音の釈迦院で読み書きを学ぶ
12才の時 尾張国を襲った大地震により甚目寺観音が倒壊し 正則も復旧作業に加わったのだが 些細な事で大工と口論になり その人を殺めてしまったのです
正則は新居屋村の赤林家に匿われました
殺された大工仲間は騒ぎ立て正則を差し出すように赤林家に詰め寄るも 正則を渡さず命を助けました
そして赤林家の配慮により駿河の福島正光に預けられ教養されて 後に福島姓を名のることになります
(福島正光は秀吉の父弥右エ門の異母弟である )
その後 秀吉に従って中国攻めに山﨑合戦や賤ヶ岳で手柄をたてるなどして 成長していくのです

関ヶ原の合戦では加藤清正らと共に家康につき活躍 東軍についたのも三成に秀頼を託すには信用できず正則と三成は対立していました 家康なら秀頼様をどうにか助けてくれるだろうという考えがあったからこそ東軍につきました
だが その願いは叶わず 家康が天下取りとなります…
時代は家康に変わるも秀頼を守り続けるが 秀頼が亡くなり豊臣家は滅亡してしまいました
正則は広島城へ移って この地を治めるが 幕府の法を破り 広島城を明け渡してしまいます(福島正則の改易)
法を破った罪で信州に流され64才の生涯を閉じます

福島正則公誕生地碑
昭和初期まで村の祭礼を挙行する際は「およみ屋敷」と 呼ばれる土地から飾馬を出すなど神聖視される土地があった
言い伝えでは ここが正則の正家跡にちなんでという
残念ながら 今は宅地化されて面影はない

・菩提院 菊泉院
正則の菩提寺です
正則の死後 家臣 大野平内が従者3人を連れて正則の位牌や護物仏などを持ってきたのだとか それをこのお寺に奉納しました
位牌には 「海福寺殿前三品相公月末翁正印大工居士」の戒名が書いてあり 上部には家紋の中貫十文字が 左右には桐と巴紋が配されている
又 護持仏は安土桃山時代作の毘沙門天で正則の戦場の守り神である
その他に赤林家から正則の肖像画が寄贈されています
奉納者は 東海郡新居屋村 之地士 赤林助市郎長子 とある
更に同院所蔵の 福島正則公仰書之写は 福島丹波守地5名に宛てたもので 正則改易に関わるものである事が内容より確定できます

菊泉院のご住職様に 中に入って手を合わせていきなさい と、言われたので 入って位牌と護物仏に手を合わさせていただき肖像画も見せていただきました

甚目寺観音 仁王像
正則が読み書きをした寺で 後に正則は この寺に仁王像を奉納をします
奉納を示す墨書が 平成20年4月に始まった解体修理で見つかったそうです
腹部裏には墨書で 慶長2年 「奉 造立甚目寺仁王大檀那藤原朝臣福島左衛門大夫正則敬白」と書いてあり 正則が清洲城主時代に奉納した仁王像である事が判明しました
奉納理由については 朝鮮出兵から無事帰還した事への感謝や 秀吉の病気平癒祈願などが考えられると思われます

 

正則の足跡が こうしてここに根付いている事で 正則が生きていた証を感じる事ができました

f:id:kaori3211:20200701215430j:image福島正則公誕生地碑
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f:id:kaori3211:20200701215354j:image菩提院 菊泉院
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f:id:kaori3211:20200701215404j:image福島正則供養塔
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f:id:kaori3211:20200701215425j:image正則の御位牌と護物仏
f:id:kaori3211:20200701215359j:image甚目寺観音
f:id:kaori3211:20200701215438j:image正則寄進の仁王像
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前田利家出世の地を巡るpart2➖荒子城

場所は愛知県名古屋市中川区荒子です

利家はここで生まれたとされていますが 出世の地については前田城説もあるのでハッキリとはわかってはいません 幼少期をここで過ごしていたとは言われています
のちに利家の嫁となる お松であるが尾張沖ノ島村(愛知県あま市)の生まれで 林氏常信の娘として生まれました 当時は相当な評判の郷主であったため 沖ノ島に勢力を伸ばそうとしていた清洲織田家から睨まれておりました お松4歳の頃 荒子前田利家の父 利春が 林氏常信を訪ねた際に 麗しき幼女お松を見初め利家の嫁にしようと常信から貰い受けました 利家は織田家の手前 お松が常信の娘である事を伏せ 荒子の近くに住む篠原氏の娘として育てました
荒子城では 幼少期を利家とお松が過ごしていた事は間違いないでしょうね
そして利家21歳 お松13歳の時に 秀吉により婚礼がとり行われました
後の話であるが 前田家の家督は利家が継ぐはずではなかったのだが信長に前田家の家督を継ぐように命じられます 理由は利久に実子がなく養子が居たが病弱のため武者道少御無沙汰の状態にあったからだといいます その時に利家は荒子城主となりました

利家とは一体どんな人物なのか!
利家は加賀のイメージが強いが 尾張の若かりし頃の利家は信長の うつけ仲間として喧嘩っ早く異様な出で立ちで派手な長槍を持って歩いた為 皆が道を避けて歩いたと言われています 血気盛んで槍の又左衞門 槍の又左などの異名をもって呼ばれた程でした
利家は「犬」とも呼ばれ信長や秀吉からも可愛がられ犬千代の名もあります
稲生の戦いでは宮井勘兵衛なる小姓頭に右目下を矢で射抜かれながらも首を討ち取るという功績を上げたり 数々の功績を挙げ赤母衣衆筆頭に抜擢されたりと信長の与力となりました
一時期は信長から出仕停止処分になり浪人人生を歩みますが 復活戦とも言われる森部の戦いで信長に認められ戻る事を許されます

"森部の戦い"
https://www.facebook.com/groups/260548057428032/permalink/1283471195135708/

波乱万丈な人生を送っていますね!

こうして荒子時代は 信長に仕え数々の功績を残し お松という最愛の妻に守られながらすごしておりました

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浅井長政 浅井氏の墓所(徳勝寺)

場所は 滋賀県長浜です
前回行った時は御住職お留守でしたので 今回はどうかな?思って行ったらおりました(笑)早速お話しを聞く
お墓は 浅井亮政 久政 長政が並んであります まずは御参り
その後本堂に案内されて長政の生い立ちを話していただきました。とてもお話好きな御住職で ずっと喋ってました(笑) とても楽しかったです
私「今 お墓の中には長政の御遺骨は入っておられるのですか?」 住職「いや 入ってない 菩提寺という事でお墓を作ったんですよ」と、いわれました 私「何か残ってるのですか?」と聞いたら お位牌と木造 そして何と!長政が小谷城で自刀した時の刀があるとの事で 早速見せていただきました。 刀については公開日が決まってるので 見れませんでした 命日の9月1日に公開さらるそうなので 休みが合えば是非行って見てみたい
小谷城落城後は秀吉が小谷に入りました 徳勝院は 当時小谷城の麓にありましたが 燃やされる事は無かったそうで 秀吉はそれをしなかったそうです手厚く保護したのだそう
秀吉が長浜城主になった時 徳勝寺もこちらに移されました その時に持ち出された物は今残ってる物で昔はもっと有ったと思われます、と言われました
ガラスケースには 浅井家三代 そして長政の娘 淀 江 初 万福丸の御位牌 あとは木造がありました
私「写真は良いですか?」聞いたら 住職「あーどうぞどうぞ撮ってください」言われたので 遠慮なく撮らさせていただきました
帰りに 特別にと御位牌にお供えしてある林檎🍎をあげるから持ってきなさいと言われ頂きました。めちゃくちゃ嬉しかったです😊

実はこの御住職 お寺を掛け持ちしてまして 何と‼️浅井家と因縁の相手と言われる六角氏の菩提寺だそうで 「任されてしまったので行ってます 少し複雑ですが…」言うてました(笑)
私「これも何かのご縁ですね」言いました(笑)
御住職は今で53代目だそうです

住職とても楽しい時間をありがとうございます とても勉強になりました✨

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f:id:kaori3211:20200627075541j:image長政 久政 亮政のお墓です
f:id:kaori3211:20200627075545j:image長政とお市の木造です 
f:id:kaori3211:20200627075553j:image亮政夫妻
f:id:kaori3211:20200627075531j:image浅井家三代の木造
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f:id:kaori3211:20200627075549j:image浅井家のお位牌です
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f:id:kaori3211:20200627075606j:imageりんご🍎もらっちゃった♪

 

 

森蘭丸・坊丸・力丸の供養

蘭丸の資料を買った時に気になる場所があり そこへ以前に行ってきました
ある森蘭丸の資料の中にこう書いてある
妙向尼(蘭丸の母)は本能寺で亡くなった最愛の三人の息子の弔いを兼山城北東の可児郡伊岐津志村中野(現 加茂郡八百津町西津)に一目千本卒塔婆を立て、沙門大衆の供養を受けて亡き三兄弟の霊を弔うために金山近郷の僧侶を請じて葬儀を行った
今もこの地には「せんぼどう」という地名は残っているが当時中野原は金山城下の内で 辺り一帯が広い野原であり 森氏の軍事用の施設の一部であった

信長から鳥峰城を頂いた可成によって城の名前が ここの山麓に祭られていた 南宮神社の祭神の名を借りて金山城としたとある

ここまでが資料の文だ

その"せんぼどう"には蘭丸、坊丸 、力丸の三兄弟の供養塔が有ったのですが 後に 森家の菩提寺である可成寺に移されました
'せんぼどう"の場所について資料館の方に聞いたのだが 兼山城から東へ400メートル行った中野と言う場所で 今は"せんぼどう"と地名ではないから ハッキリとした場所はわからない、と言われました

仕方ないので中野にある町役場に行き聞く事にした。そこでも"せんぼどう"の場所はわからない、と言われ 八百津の役場ならわかるかもしれないと聞いたので 行ってみたら ちょうどその日は郷土史家の方が居ますよ!と言われ会わせていただきました
話を聞くと"せんぼどう"はこの辺りで 本当は"せんぼと"と言い、元は首切り場であったのだそう
当時その場所は "なおれ"とも呼ばれており よくTVや映画でみる「そこになおれ!」と聞きますが まさにその"なおれ"の意味です

首切り場だけに その名がついていたそうな
森家の軍事施設の場所であるならば そうだったのかもしれない…
時が経ち 流石に なおれ と、いう名は縁起が悪いので中野に変わったのだそう
なぜそのような場所で蘭丸の母は葬儀を行ったのか…と、郷土史家の方もわからず のようでした
供養塔の有った場所は今はコンクリート工場になってました

資料の中には蘭丸の母 そして兄の長可の気持ちが綴られています

森長可本能寺の変の報を聞き信濃国から命がけで金山城へ帰城した
すぐに長可は母公の前にお出になられたが、ただの一言も、もの言わず、ただ涙にむせぶばかりであった
母公は長可の側に寄り鎧の袖をつかんで泣いた
「しばらくぶりですね、武蔵どの。さてもどうしようもない事です。世の中に、武士ほど はかないものはない。元亀の初めに三左衛門(夫・可成)殿に先立たれた時は、その事ばかりを考えていたが、あなた達兄弟5人がいること故、それを慰めにして しばらく歳月を過ごしてきた。
ここまで皆成長し、その立派な武者ぶりを見るにつけ、ああ、なんて器量ある者どもかな。
我が子に勝る者はおらぬであろう、と、人の持たざるものを持つように嬉しくて、朝夕姿を眺めて感動する時は、もはや三左衛門殿のことも忘れ、我が子を月よ花よと思い、私はなんという果報者かと、人にも語り、自らもそう思っておりました。
蘭丸、坊丸、力丸、3人ともに信長様へ召し出され、中でも蘭丸は器量人に勝る発明ぶりは他の者を抜きん出ていると耳にし、私は武運の久しからんことを、神にも仏にも祈り、子孫の繁栄を目にしたくて、我が身の百年の命をも祈りました。
それなのに、3人とも本能寺にて討死したというではないですか。
この身のよんどころなく、共に自害をもして果てようと、千度、と百度と思いました。
又、ある時は思い直して、主君の共をして華やかに討死するのは武士の面目と考えて忘れようとしました。
しかし朝夕、人が語るのを聴くにつけ、忘れるひまもなければ、何の因果でこの身は存命しているのかと考え、あの子達のもとへ参ろうと、我が如来様にお暇(いとま)を申し上げ、どうかお迎えに来てくださいと、日に何度も心乱していたが、武蔵どのも、仙千代もやがては帰って来てくれると待ちわびました。
道中危険があったと聞いておりましたが、よく恙無く帰って来てくださいました。
こうして逢うことが叶った事の嬉しさは、夢ではないでしょうか。」
妙向尼のこの言葉に、長可は涙を押さえて語った
「お嘆きなさいますな。そのようにおっしゃられても、この世は生者必滅、会者定離の習い、驚きなさることではございません。殊に武士の家に生まれたならば、戦場に出て、生きて帰ろうと思う者は一人もおりません。恩賞をむさぼり、利益を願う事は、家名をけがすのみでなく、子孫を滅ぼす事でございます。
武家にお生まれになられた上は、女性であっても、その道理をご存知ないはずがございませんでしょう。
お嘆きを辞め、念仏を怠らずに唱えてください。
母上の回向は、今生にては、我ら仙千代の為の祈祷となし、未来にては父・可成様と3人の者どもの為の祈祷となしてください。みな、一連の縁となりますようにとお祈りください。」
そうやって長可は様々にお諌め申し上げた。

母と兄の想いである…
苦しくも受け止めなければならぬ現実…辛かったであろう

私は 蘭丸、坊丸、力丸の遺骨を分骨しているのではなかろうか…と、思ってます 母の側に置いておきたいと思うのは母心です
本能寺が起きる前に3人から母へ手紙が来ており 「近々帰りますと 早く母の顔が見たい」と そのような事が書いてありました その夢も叶わずとなった今 3人を胸に抱きたいという思いでいっぱいであったろう

戦国の世とは…

 

今日も読んでいただきまして有難う御座います😊

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f:id:kaori3211:20200624220350j:image"せんぼどう"に有った時の 蘭丸、坊丸、力丸の供養塔
f:id:kaori3211:20200624220354j:image可成寺に移された 3人の供養塔
f:id:kaori3211:20200624220358j:image"せんぼどう"の場所 コンクリート工場
f:id:kaori3211:20200624220346j:image"せんぼどう"の地図です

 

 

大谷吉継の聞き取り調査

以前に紹介した もう一つの吉継殿の首塚について 身辺調査してきました

以前に紹介したblog↓

https://rekijoshi.hatenablog.com/entry/2020/01/10/232707


関ヶ原から揖斐の春日村に抜ける峠にある吉継の首塚 春日に下った所には古屋という村がある
そこに居る おばちゃんに話しを聞いた 確かに昔からの言い伝えで吉継の塚があると聞いていると言っていた そのおばちゃんは 40年前に この古屋に嫁に来て 古屋から関ヶ原に行くのに その峠を越して行ってて その時に ご主人さんから 「この塚は武将の大谷吉継の塚だよ」って教えてもらっていたそうです
春日の役場に行くと色々知ってる人居るかもと聞いたので 行ってみたら やはり春日では有名なのか役場の方達は その話しを知ってました それで "春日のむかしばなし"という本と春日町史を出して来てくれて 「ここに書いてあるよ」教えてくれました
ただ 読んでて 少し出てくる人物の名前(湯浅五助→岩倉五助)(藤堂高虎→ 青山新八郎)が違うので どうかと思いましたが 人物の名を調べると 青山新八と名で徳川家康の家臣として居たのがわかりました
だから 追って来たのが青山新八郎であるのも間違っていない事もないであろうと 思われます
昔話の本では 吉継の首の他に 金鉛と刀も一緒に埋めたと書かれてました
春日の町史のページ右上に載っている写真で春日にある吉継首塚以外の吉継のお墓は 今回は発見出来ずでした 又それはリベンジです

米原にある首塚 そして この古屋の峠にある首塚 どちらが本当なのか
だが こうして 春日村に言い伝えとして残って居る事にはまちがいはないのである

そして役場で 聞いたのだが 吉継の家臣である鳥居某が 春日村に落ち延び 村人に食べ物をねだったら 握り飯1つだけしかもらえず その近くにある楠木の下で「こんなひどい扱いを受けて恨んでやる」と、言って亡くなったのだそうです
時に今 ある時男の子がその近くを通ったら 鳥居某殿の霊が出て 「恨んでやる」と、言ったそうで その後に塚を建てたら 何も起こらなくなったそうです
その塚は 今もあります

て、事で 吉継の家臣も春日に落ち延びて居るという事は 吉継の首を持って春日に抜ける峠を来たのは有力であると思いたい

ただ 昔の事を そうである!とは言い切れないので その辺りは皆様の想像におまかせしよう

 

…とまぁ、これは以前に下書きをしたもので実はその後の真実というものを発見致しました

春日村に有る吉継の首塚も本物!そして米原にある首塚も本物!

何故なのか!実は春日村に一度作られた首塚であったが 後日米原へと首塚は移されたとの話なのだ

これも春日村の昔話に書かれてた事である

いつどのように移されたのかはわからない

 

こうして吉継の首塚は二つ有るのだという事は間違いないのである

 

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f:id:kaori3211:20200618213538j:image関ヶ原から 春日村に抜ける峠にある吉継殿の首塚
f:id:kaori3211:20200618213607j:image古屋から関ヶ原に抜ける道にある 看板
f:id:kaori3211:20200618213533j:image古屋の住民のおばちゃん
f:id:kaori3211:20200618213541j:image春日の町史
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f:id:kaori3211:20200618213545j:image春日のむかしばなしの本から
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郡上八幡城に纏わる伝説

郡上八幡城の伝説と言えば "およしの人柱"ですが まだ他にも伝説が残っています

"力石伝説"
八幡城主の遠藤慶隆が八幡城復帰後に八幡城を改修した節に、城下吉田川から人夫が川原石を背負い上げたといわれます
その中で剣村(現大和町)の通称赤髭作兵衛なる者が1m×75cm、約350kgの大石をひとりで背負い上げたというのだ!
普請奉行がその力量を深く褒めたたえた途端に彼はその場で倒れて息たえてしまいます…
普請奉行はこれを哀れんでこの石の使用を禁じたといわれます
昭和8年に模擬城の建設にあたり放置されていたこの石を八幡城庭園内に安置されました

昔は城を建てるのも命がけ どれだけの人が命を絶ったかわかりません
まさに城戦です そんな人達の苦労の思いも感じながら城を見るのも 又違った意味で城を見れると思います

 

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妙源寺 佐和山城の城門

場所は滋賀県彦根です
このお寺の門は 佐和山城の城門だそうで 見ると矢穴が沢山あります

当時が如何に凄かったかを物語っています

佐和山城の裏鬼門に位置するこの寺は佐和山の法華丸から移された寺だと言われています
 本堂は老朽化の為 今は新しく建て替えられてしまいましたが その前は三成御殿が移築されて本堂になっていたそうです

(新しくなった本堂を写したつもりですが写真が無かった💦)


そして、ここは井伊家の菩提寺でもあり 彦根藩第8代藩主井伊直定公の寄進より別棟で本堂が建立されてます
御住職に井伊家の本堂を見せてもらうと 井伊家のお位牌と直定の手書きの立て板 そして 観音様の下には 石経が敷き詰められているそうです
そして何か書かれた紙が入っていたようで 直定の歯がここに有りと書いてあったそうです 調べると出てきたそうです

 

当時の佐和山城の遺構がこうして残っている事が感動ですね

f:id:kaori3211:20200604080242j:image妙源寺
f:id:kaori3211:20200604080247j:image佐和山城の城門
f:id:kaori3211:20200604080309j:image矢穴があります
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f:id:kaori3211:20200604080312j:image井伊家の本堂
f:id:kaori3211:20200604080255j:image本堂の中、観音様の下に直定の歯かありました
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f:id:kaori3211:20200604080300j:image井伊家の御位牌