山本勘助は八名郡賀茂村の山本光行の三男として産まれ幼名を源助と言った。祖父は賀茂神社の神官であった
勘助は15才の時牛久保城主牧野氏の家来である大林勘左衛門の養子となった。その為名を大林勘助貞幸と改めた
後に賀茂から牛久保に移り住んだという
それから10年経ち元々武芸を好む勘助は多くの武士がするように武者修行に出る
立派な武士になるには武者修行が必要だった
勘助は剣士の道場の門を叩いては修行に励んだ
高野山に登り摩利支天堂に籠って武術の上達を祈願し、摩利支天の仏を襟にかけ御守りにし四国、九州、山陽、山陰の各地を巡り毛利氏や尼子氏に仕えた
勘助の武者修行は10年続き、その間75ヶ所の傷を負ったといわれる
35才になった勘助は牛久保の大林家に戻ったが勘左衛門には男の子が産まれていた。その為勘助は勘左衛門と親子の縁を切り、姓を再び山本に戻した
そして今度は関東に修行に出た。勘助は背が低くすが目で体の各所に負傷していて手足が不自由なうえに色が黒いという醜い男であった。その為武将に次々断られ結局最後に武田信玄に仕える事のなりました
(賀茂村のあゆみより)
豊橋市賀茂村には山本勘助が生まれたと言われる山本屋敷跡地があり、そこに"山本晴幸生誕地"と書かれた石碑が立てられている
(山本勘助晴幸と勘助は言います)
勘助が生まれ場所については駿河国富士郡山本村にも有るのでここなのか?とハッキリとは言いきれない
だが賀茂村にある山本屋敷跡から西に少し行くと"本願寺と言う山本勘助の菩提寺が有り、そこには勘助の御両親の墓がある
そう考えると賀茂村が有力ではないかと思うのだが…
駿河国富士郡山本村も言ってみないたわからないので今後の課題である
場所 豊橋市賀茂町🗺
山本晴幸生誕地