戦国女士blog

戦国大好きな歴女子が、歴史探索をしてきた記事を載せてます(・∀・)

信長と弟信行 稲生の戦い 稲生原古戦場

場所は名古屋市西区です

稲生の戦いとは織田家で起きた織田信長とその弟信行との家督争いから起きた戦いです
織田信秀(信長、信行の父)が急死し跡を嫡男である信長が継ぎました
一方 信長の弟である信行は兄とは離れ末森城に居住します
父の残した勢力を着実に拡大していった信長であったのだが 信長は素行が悪く「うつけ者」と呼ばれるほどであったのに加え 家老であった平手政秀が自刃する事件が起こり家中からは頭領に相応しくないとされました
信長では織田家をまとめられないと考えた宿老の林秀貞とその弟林美作守、信行老臣の柴田勝家らは信長を排除し 家中でも評価の高い信行に家督を継がせようとした  そして信行自身も織田家代々の名乗りである弾正忠を自称したり 信長の直轄領である篠木などを押領し砦を構えるなどして反抗の意思を示します
このような不穏な動きは信長の察知するところとなり佐久間盛重に命じ名塚に砦を築かせました
そして稲生原での合戦に至る事となりました
信長軍が清洲から南東にある庄内川を越えたところで東から来た柴田軍と南から来た林軍との戦いが始まります
信長公記によれば信長方の手勢わずか700人に対し 信行方は柴田勝家が1000人林秀貞が700人の合計1,700人!
正午頃 信長軍の約半数が柴田軍に攻めかかったものの兵力差に加えて戦上手で知られる柴田勝家の活躍があり信長方は佐々孫介(佐々成政の兄で小豆坂七本槍の一人)ら主だった家臣が次々に討たれるなど苦戦を強いられ 柴田軍が信長の本陣に迫った時には信長の前に織田勝左衛門・織田信房・森可成と鑓持ちの中間40人ばかりしかいないという危機に立たされた
しかし織田信房・森可成の両名が前線に立って戦い清洲衆の土田の大原という武将を返り討ちにするなど奮戦します その時 信長が敵に対して大声で怒鳴ると身内同士の争いだったこともあり柴田軍の兵たちは逃げていったという(信長が尋常でない大声の持ち主だったことはフロイス日本史に記録されている)
勢いを取り戻した信長軍は次いで林軍に攻めかかった 戦いの中 林美作守が黒田半平と切り結んで息が切れたところに信長が打ちかかり槍で突き伏せて討ち取ったのを始めとして信行方の主だった武将を含む450人余りを討ち取ります
こうして信行方は崩れ敗走しました
その後 信行は末盛城、那古野城に篭城するが それに対し信長は両城の城下を焼き払ってしまいます

負けてまった信行は母である土田御前の取りなしにより助命され清洲城で信長と対面して許された
後に信行は再度謀反を企むが既に信行を見限って信長に与していた柴田勝家に騙され信長が病に臥していると聞き訪れた清洲城の北櫓 天主次の間で信長の命を受けた河尻秀隆らに暗殺されてしまいます これが信行の最後です
これにて織田家家督争いの決着となりました

・名塚砦
稲生の戦いにて 信長が築かせた砦です 今は名塚白山神社になっています
庚申塚から北へ数百メートル行った場所にあります

・稲生原古戦場
戦死者達を弔う庚申塚があります
ここにて手を合わせてきました

 

今日も読んでいただきまして有難う御座います😊

 

f:id:kaori3211:20200514103052j:image庚申塚 稲生原古戦場跡

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f:id:kaori3211:20200514103101j:image供養塔
f:id:kaori3211:20200514103114j:image名塚白山神社 名塚砦
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