戦国女士blog

戦国大好きな歴女子が、歴史探索をしてきた記事を載せてます(・∀・)

秀吉の水攻め作戦 太閤山砦

場所は岐阜羽島です
秀吉の戦略といえば水攻めが有名ですね 美濃でも水攻めが行われました

織田信長の死後 実権を掌握した秀吉と織田信雄徳川家康とが対立し小牧長久手の戦いが起こりました 長久手で家康に敗北した秀吉は作戦を変更して長島城の信雄を脅かし家康を誘い出そうと図ります 秀吉は細川忠興らを動員するとまず信雄方の加賀野井城を落城させ翌日には竹ヶ鼻城の北西1キロメートルにある間島村の丘陵に付け城を築いて そこを本陣とします それが太閤山砦です

竹ヶ鼻城主不破広綱は長年信長に仕えてきたが秀吉とも昵懇の間柄だったため双方のどちらに付くか城内で大評定を開いた結果 信雄に付くことに決します このとき籠城したのは700とも7000ともいわれます この城は東側に木曽川の支流足近川につながる逆川が流れ堤防が築かれていました そこで秀吉は城の北から西、南へかけて半円形に約3kmに及ぶ高さ約3m幅25mの堤を築きそこに足近川の水を引き入れて城を水攻めにすることにした 将兵のみならず付近一帯の住民もかり集め突貫工事を行います この堤は「一夜堤」と呼ばれるが実際には5、6日は要したと見らる
五月雨により増水した足近川の水により町家は約1m浸水し城は二の丸まで冠水しました 城内では筏を組んだり簀を張ったりして対処したが家中には逃げ場を失った鼠や蛇が侵入してくるという大惨事 城側は信雄や家康に救援を要請する使者を送るも本多忠勝織田長益 滝川雄利による援軍は秀吉側に阻まれて途中から引き返してしまいます しかし秀吉も家康や信雄が自ら出陣して来ないのでは長々と戦いを続けるのも無意味と考え城主以下全員の命を助ける条件で開城するよういいます これを受け入れた広綱は長島の信雄のもとに退去し竹ヶ鼻城を接収した秀吉も大坂城へ帰還しました
(参考資料から)

太閤山砦に陣をはり水攻めにあう竹鼻城を見て秀吉は 「うぅ〜!家康と信雄はまだ来ぬか!」と、言いながら扇子で太腿を叩いていたのでしょうね(笑)

 

読んで頂きまして有難う御座います😊

 

f:id:kaori3211:20200402081008j:image
f:id:kaori3211:20200402080957j:image太閤山砦の説明板 
f:id:kaori3211:20200402081012j:image太閤山砦跡
f:id:kaori3211:20200402081016j:image
f:id:kaori3211:20200402081028j:image水攻めに使われた足助川、境川
f:id:kaori3211:20200402081025j:image一夜堤跡
f:id:kaori3211:20200402081004j:image一夜堤跡
f:id:kaori3211:20200402081001j:image
f:id:kaori3211:20200402081020j:image竹鼻城跡