戦国女士blog

戦国大好きな歴女子が、歴史探索をしてきた記事を載せてます(・∀・)

戦国の国友鉄砲鍛冶師

場所は滋賀県長浜国友です

"国友鉄砲の里資料館"に行ってきました。
戦国時代と言えば火縄銃ですね!
日本で最初に鉄砲が入って来た由来ですが、天文12年8月25日種子島の門倉岬に中国船が嵐の為に漂着、そこに乗っていたポルトガル人から始めて日本に二挺の鉄砲が伝えられ、島津の手に渡り、後に一挺が足利将軍の手に渡って、国友の鍛冶師に鉄砲作りをさせました。その後に戦国の戦で使われる事となったのが始まりと言われます。
国友は元々戦用の武器などは作っておりませんでした。どちらかと言えば農作物用のクワなどの生活用品の器具を作っていまして 今回鉄砲が入って来た事により、足利将軍の命で初めて武器を作る事となるのです。
鉄砲が出来上がるまでは相当苦労を重ね、試行錯誤しながら作ったと言われます。
聞いた話では、当時足利将軍の手に渡った時には足利家と京極家との関わりが深い事もあり 京極の時代には鉄砲は出来ていたのではないか、と言われています。
信長の頃には、国友で鉄砲を大量生産させ、姉川の戦い長篠の戦いで鉄砲が大活躍をしました。
ただ この国友の鍛冶屋がある場所は浅井の領地であった事から、信長と浅井の争いの頃には、浅井側であった国友は信長の注文を聞いたとは思えないので、信長と浅井両者が仲割れをする以前に作ったのでは?と思われます。長篠の戦いについては既に信長と浅井の決着はついた後なので、その後は信長が国友を支配か何かしたのでしょうね、鉄砲職人を滅亡させてしまっては困るのだから。
家康の大坂の陣では大筒、中筒を使ったと言われます。勿論国友で作らせてました。国友の鉄砲大活躍ですね!
当時は鍛冶屋が70軒、そして500人もの鍛冶職人が居たといわれます。いかに、この国友という町が凄かったかが伺えます。
ちなみに国友鉄砲の里資料館の西出入り口の道は小谷道と言い その道をまっすぐ北に向かうと小谷城があります。

ですが、後に国友の鍛冶屋は九州へと移り住む事になるのです。その辺りの話は領地を追われた?のだそうですが、詳しくはわかりません。
九州に国友さんは居るのか?と、聞きましたが、居ないとの事。ただ名前を隠して変えたのでは?と言われました。

国友の町も大河ドラマ"麒麟がくる"に向けて イベントを考えてあるようで、沢山の観光客が来ていただけるよう 光秀と国友の関わりを調べているそうです
光秀と言えば鉄砲の戦術は凄かったと言われます。自分なりの独自の鉄砲を作らせていた可能性もありますね!そう言った事では国友との関わりがありそうです!

 

読んで頂きまして有難う御座います😊

 

2019年10月撮影

 

f:id:kaori3211:20200217022426j:image国友鉄砲の里資料館
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f:id:kaori3211:20200217022418j:image国友与五郎屋敷跡
f:id:kaori3211:20200217022455j:image小谷道
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f:id:kaori3211:20200217022411j:image小谷道を北に向かうと川があり、昔はこの先に橋がありました 今はありません
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