戦国女士blog

戦国大好きな歴女子が、歴史探索をしてきた記事を載せてます(・∀・)

➖桔梗塚➖明智光秀の伝説を辿る

場所は岐阜の山県市です
以前行って話を聞いて資料を頂いたのでお話します
山県市に残る伝承では 光秀は土岐元頼の嫡男として産まれ 土岐氏一族の末裔とされる 元頼は土岐成頼の四男であり長山四郎と称される
土岐氏の一族の中で光秀の父とされる土岐元頼の名が歴史に現れるのは戦国時代前期の1496年美濃地で起こった船田合戦の時であります
船田合戦は土岐成頼の後継をめぐり成頼の嫡男である土岐政房と四男の土岐元頼の兄弟間の争乱としておこった この戦は元頼側の敗北に終わり 元頼は城田寺城で自刃したとされます
ですが!山県市の伝説では土岐元頼は城田寺城を脱出し中洞(山県市中洞)の地に隠れ住んだと伝わっている 元頼は中洞の豪族である中洞源左衛門の娘 お袋多(後の松枝)を妻に迎えた 後に2人の間に長男の十兵衛(後の明智光秀)を産まれます
そして 十兵衛が7歳の時に元頼は43歳で亡くなりました
祖父の中洞源左衛門は 元頼の遺言により十兵衛は可児の明智城明智光網に軍事兵法を学ばせ土岐家の再興を図ろうとしました
光網は十兵衛の利発賢明を喜び源左衛門に頼み11歳の十兵衛を養子として迎え 元服して明智日向守光秀を名乗らせました
時は流れ 戦乱 明智城斎藤義龍に攻められ落城してしまいます その際光秀は明智家の再興を期して城を脱出し修行の旅に出ました
光秀は 明智城落城後 越前朝倉と足利将軍に奉公したとされる 当時 美濃の土岐氏は越前朝倉氏と密接な関係にありました 山県市にある大桑城は朝倉氏の支援によって整備されています その後 織田信長の家臣となり活躍しました
ですが本能寺の変が起き 山崎の戦いで敗北により人生の幕を閉じる

さて!ここから山県市に纏わる桔梗塚の話になります
この桔梗塚の由来については 何度か投稿しているので 知ってる方もいらっしゃるでしょうが 敢えて紹介致します
秀吉との山崎の戦いで光秀は勝竜寺に引き上げ最後の戦に未子の乙寿丸を伴い共に自死しようと近州観音寺に待機していた その時家臣の荒木行信が馳せ参じ「まだ最後の時にあらず 此の処を一時逃れて再興を謀り給え」と光秀の脱ぎ捨てた鎧冑に具足を着て身代わりとなり家来共々的中に討ち入り華々しく戦った
逃げた光秀は乙寿丸と百姓姿となって ひとまず洛中し大徳寺で味方の最後を見届けていた 翌日 荒木行信は影武者となって山崎で討ち死にしました
光秀は荒木行信の忠誠に深く感銘し この事実を子孫に伝えようと自ら恩義を深く感じて 荒木の荒 深く感銘したので荒深小五郎と名乗り中洞に戻って隠宅を建てて乙寿丸と一緒に住んでいました
後に荒深小五郎(光秀)は雲水の姿となって秀吉の敵と味方の大名を探しまわった 慶長3年 春江戸に至り密かに家康に会い 諸大名の様子を談ずると家康は大いに喜んだと言います
関ヶ原の戦いに参加するため一族郎党を引き連れて出陣の途中 増水した薮川(根尾川)で馬共に押し流されて水死してしまいました
その亡骸を持ち帰り中洞古屋敷に葬ったそうです これが「桔梗塚」と呼ばれる明智光秀の墓なのです

とまぁ このように 山県市では伝承となっています
そして中洞には 荒深さんが沢山いらして この伝承を小さな時から代々受け継がれてきているのです

荒深さん二人から話を聞いたのですが 一人の方の名前が 将秀さん 武将の将と光秀の秀で将秀さん
すごいですね^_^

この話については これが正しいとは言いません 歴史に嘘か本当かなど 決めつけれないのです その時代に行かない限り謎です

謎だけど そこに伝承がある事だけは事実です

荒深さんご協力ありがとうございます

 

読んで頂きまして有難う御座います😊

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