戦国女士blog

戦国大好きな歴女子が、歴史探索をしてきた記事を載せてます(・∀・)

今川塚(供養塔)今川義元

清洲まで行き、信長様が今川義元の為に建てた義元の供養塔を見に行ってきました。
最初に出向いたのは"正覚寺"!そこに義元の供養塔はある
住職不在の為 奥様に話を聞いた
元は別の場所にこの供養塔はありました

正覚寺に移ったのは、元供養塔が有った場所のお家の方が管理出来なくなったので、正覚寺に移ってきたとの事でした。そして先代の住職が義元の供養に関わっていたからだとも話されました。
ここには供養塔があるだけで義元の物は他にはありませんでした。元の供養塔が有った場所を教えてもらい行ってみた。
正覚寺から南に向かってくと踏切がある、それを越して少し行った右手に山内家があります。そこの庭に義元の供養塔はあったそうです
もちろんただでは帰りません、山内さんのお宅のチャイムを鳴らす(笑)
奥様が迎えてくださいました
山内家が建つ前はここはお寺の敷地内で墓地だったそうです。その一角が山内家の所有地だったので、そこに山内家は建てられました。なので義元の供養塔も必然的に山内家の庭に入る事になったのだ。なので 山内家と義元の繋がりは無いのである
当時は 義元の首実験?の松の木があったとされるが、台風の時惜しくも倒れて今は無い。

何故この場所に義元の供養塔があるのか…その理由は 清洲城に持ち運ぶには縁起が悪いとの事で、清洲城から五条川原を隔てた東にある墓地に首を晒したのであろうと言われている。
義元の首級を領内人民に示す為だったとか
首実験は桶狭間古戦場にある長福寺で行われ、その後清洲に持ち運ばれたのですかね

その後 義元の首はどうなったか!
桶狭間の戦いで鳴海城を守っていた岡部元信なる者が、大雷雨によって人馬の音がかき消され織田軍の通過に気づかなかったのである。
不意を突かれた今川軍は、織田軍に敗れてしまいます。今川義元の最後であった…

岡部元信は自分の不手際で主君を死なせてしまった事で、自分で自刃して死のうかと思ったが、 戦わずして死ぬ事は恥であると討ち死に覚悟で鳴海城に立て籠もってしまった。
信長様は 鳴海城に立て籠もった岡部元信に 「降参したらどうだ 主が居ない今 どうしたいのだ?」と、問うと 「自分のせいで主君を死なせてしまった 戦わずして死んでしまうなんて…死ぬに死ねません どうか 主人の首を返して頂きたい さすれば駿河に帰り主人の霊を弔います」と言いました。 信長様は、岡部元信の義の心を感じ、こんな立派な武将を死に追いやる事を惜しんで 僧をつけて清洲に晒してあった義元の首を返しました。
岡部元信は 義元の首を持って駿河に向かったのです。
その後、その晒されていた場所に義元の供養塔を建てたという話なんですね

山内さんに義元の供養塔を正覚寺に移した事については 話してて何となく思ったのですが、 本当は 移したく無かったのだな って思いました
移動させなければならない何かがあったみたいで、あまり深くは聞きませんでした。
今は亡き おばあさんから、義元の供養塔の話を聞き、それなりに山内家も色々調べたそうです。 ファイルに沢山資料を挟んでました。
[今川塚]と書いた冊子も頂き とても嬉しかったです

歴史探索はこんな感じで終わりました

 

読んで頂きまして有難う御座います😊

f:id:kaori3211:20200224081946j:image山内さんから貰った冊子です
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f:id:kaori3211:20200224081949j:image正覚寺
f:id:kaori3211:20200224082002j:image正覚寺の今川塚(供養塔)
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f:id:kaori3211:20200224081953j:image山内家の駐車場にある説明版
f:id:kaori3211:20200224081957j:image山内家にあった時の義元の供養塔