戦国女士blog

戦国大好きな歴女子が、歴史探索をしてきた記事を載せてます(・∀・)

大谷吉継の聞き取り調査

以前に紹介した もう一つの吉継殿の首塚について 身辺調査してきました

以前に紹介したblog↓

https://rekijoshi.hatenablog.com/entry/2020/01/10/232707


関ヶ原から揖斐の春日村に抜ける峠にある吉継の首塚 春日に下った所には古屋という村がある
そこに居る おばちゃんに話しを聞いた 確かに昔からの言い伝えで吉継の塚があると聞いていると言っていた そのおばちゃんは 40年前に この古屋に嫁に来て 古屋から関ヶ原に行くのに その峠を越して行ってて その時に ご主人さんから 「この塚は武将の大谷吉継の塚だよ」って教えてもらっていたそうです
春日の役場に行くと色々知ってる人居るかもと聞いたので 行ってみたら やはり春日では有名なのか役場の方達は その話しを知ってました それで "春日のむかしばなし"という本と春日町史を出して来てくれて 「ここに書いてあるよ」教えてくれました
ただ 読んでて 少し出てくる人物の名前(湯浅五助→岩倉五助)(藤堂高虎→ 青山新八郎)が違うので どうかと思いましたが 人物の名を調べると 青山新八と名で徳川家康の家臣として居たのがわかりました
だから 追って来たのが青山新八郎であるのも間違っていない事もないであろうと 思われます
昔話の本では 吉継の首の他に 金鉛と刀も一緒に埋めたと書かれてました
春日の町史のページ右上に載っている写真で春日にある吉継首塚以外の吉継のお墓は 今回は発見出来ずでした 又それはリベンジです

米原にある首塚 そして この古屋の峠にある首塚 どちらが本当なのか
だが こうして 春日村に言い伝えとして残って居る事にはまちがいはないのである

そして役場で 聞いたのだが 吉継の家臣である鳥居某が 春日村に落ち延び 村人に食べ物をねだったら 握り飯1つだけしかもらえず その近くにある楠木の下で「こんなひどい扱いを受けて恨んでやる」と、言って亡くなったのだそうです
時に今 ある時男の子がその近くを通ったら 鳥居某殿の霊が出て 「恨んでやる」と、言ったそうで その後に塚を建てたら 何も起こらなくなったそうです
その塚は 今もあります

て、事で 吉継の家臣も春日に落ち延びて居るという事は 吉継の首を持って春日に抜ける峠を来たのは有力であると思いたい

ただ 昔の事を そうである!とは言い切れないので その辺りは皆様の想像におまかせしよう

 

…とまぁ、これは以前に下書きをしたもので実はその後の真実というものを発見致しました

春日村に有る吉継の首塚も本物!そして米原にある首塚も本物!

何故なのか!実は春日村に一度作られた首塚であったが 後日米原へと首塚は移されたとの話なのだ

これも春日村の昔話に書かれてた事である

いつどのように移されたのかはわからない

 

こうして吉継の首塚は二つ有るのだという事は間違いないのである

 

f:id:kaori3211:20200618213550j:image
f:id:kaori3211:20200618213538j:image関ヶ原から 春日村に抜ける峠にある吉継殿の首塚
f:id:kaori3211:20200618213607j:image古屋から関ヶ原に抜ける道にある 看板
f:id:kaori3211:20200618213533j:image古屋の住民のおばちゃん
f:id:kaori3211:20200618213541j:image春日の町史
f:id:kaori3211:20200618213528j:image
f:id:kaori3211:20200618213545j:image春日のむかしばなしの本から
f:id:kaori3211:20200618213602j:image