戦国女士blog

戦国大好きな歴女子が、歴史探索をしてきた記事を載せてます(・∀・)

武田信玄公終焉の地

場所は長野県下伊那郡根羽村横旗です

三河攻めの折り信玄公は三河野田城攻撃中に肺肝を患い根羽村で最後を迎えたと言われています ここに信玄塚があり村人にはそのように伝わっている事も確かです

『甲陽軍艦』53歳で天正元年 4月12日 三河 美濃 信濃三ヶ国の間ねばねの上村と申す所にて御他界とあり 信玄の死に際して哀悼の意を込めて風林火山の旗を横にしたので この地は“横旗”と呼ばれ現地名になったといわれます
下伊那郡天龍村郷士熊谷家の400年を記録した『熊谷家伝記』には「明る十二日に根羽にて御息止る」と記され さらに村内にある江戸末期の記録『根羽七宮廻り』に 十王の辻堂の傍に宝篋印塔あり 又其一族の小なる五輪塔多数あり 八幡勧請あり武田信玄の墳墓と称えている とその位置を記載しているとの事です
そして『根羽七宮廻り』には「大暑なれば死骸こらへず ここに埋めて旗印を立て」の記述は確実に伝承されていて 本当であれば ここに信玄公が眠っているという事で 信玄公ファンにはたまらない聖地であります(//∇//)

階段を上まで上がると信玄公のお墓があります このお墓は信玄亡き後 供養のため寛文年間に武田家の縁者が宝篋印塔を建てたそうで 調査した所 室町時代後期の特徴を備えたものであることが判明しています
昭和59年の発掘調査では深さ2mの地中に墓擴が確認されたとの事ですが遺物は何も見つからなかったようです
実は この信玄塚は 今の場所ではなく移動されてまして 塚の南側がすぐ道路なんですが そこで 信玄公はお亡くなりにになり 塚が建てられました ですが道路開拓に伴い場所移動を余儀なくされたとの事です… だから 遺骨がもし有ったとすれば 掘り返されて どうにかなったなんて事も考えられますね

信玄公の病状については信玄の侍医といわれる御宿監物の長状 天正4年の信玄公葬儀直後 小山田信茂に送った書状には「肺肝により病患たちまち腹心に萌し安んぜざること切るなり 倉公華佗(漢・後漢の名医)が術を尽し 君臣佐使(漢方の生薬の組合せ)の薬を用ふると雖も業病更に癒えず 追日病枕に沈む」とある この病状から信玄は肺結核胃がんだったのではないかと言われています
これを見る限りでは この戦の前々から 随分と病魔が蝕んでいたのだと思われますね ギリギリまで それを隠し通して 尚も自らが戦場に向かう信玄公の男気を感じます

信玄公のお墓に手を合わせ お墓の裏ある肖像画を見ると 信玄公が微笑んでいるように見えます 今は安らかに眠っているのでしょうね
塚の南側の道路には 信玄公騎馬隊の陶壁画もありました

しかし この場所は遠い!高速から降りて1時間以上も下道で走って行くのです 帰りは 下道で美濃まで抜けました 完全なる峠越え💦 旧道です
抜けた場所は恵那の岩村でした その時私は思いました 成る程!岩村まで信玄公が攻めて来たルートは ここなのかもしれない!なんて思いながら帰ってきました

もっと聞き取りしたかったのですが 今回はタイムロスで断念!次回は 岩村から 又峠越えして根羽まで来たいと思いました 

色々な説があるので信憑性は定かではありませんが昔から話が残ってるのは事実です

信じるか信じないかは あなた次第!

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f:id:kaori3211:20200801075641j:imageこの辺りに 塚が元有ったのだと言われています
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