戦国女士blog

戦国大好きな歴女子が、歴史探索をしてきた記事を載せてます(・∀・)

典厩寺 武田典厩信繁の墓所

場所は長野県長野市篠ノ井です

川中島の合戦の際、武田信玄の弟である武田信繁はこの寺を典厩本陣として出陣したが、この激戦の中、兄信玄の危機を救う為、自らの名を大声で名乗り敵陣に討ち入ったと伝わってます「わたしの事は心配なさるな、それよりわたしが敵を防いでいる間に勝つ算段を」との伝言を急使に託して…
それが信繁の最後の言葉となります…37歳でした

そして、その後信繁の亡骸はこの寺に埋葬されたと言われます

信玄はもっとも信頼していた弟信繁の死を深く悲しみました
翌年、美濃の崇福寺住職快川紹喜国師は信玄に「典厩殿の戦死は惜しみても、なお惜しむべし」との書状を送りその死を惜しんでいます
織田信長は、織田家家臣を集めた席で信繁がどんなに優れた武将であったのかを説いています
真田昌幸(幸村の父)は「弟とはかくあるべし」との思いを寄せて武田信繁からとった信繁という名を次男である幸村に付けてます
それだけ信繁は素晴らしい人だった事がうかがえます

・信玄と信繁の絆の深さ
武田家の家督問題になると信玄の父信虎は、どこか気にそまない長男信玄よりも、自分の後継は利発な次男信繁にしたいと画策していたのです。これを察した信玄は板垣信方らと共に父信虎を駿河の今川家に追放し当主の座につきます。この時信繁は父の追放という兄の非常手段を理解して、兄信玄の指揮に従います。信玄も信繁の誠実さ器量さを高く評価し、領地の支配や軍事作戦などの重要な役割を与えていきました。
信玄の右手となり左手となったのです
2人はお互いを支えとして生きてきたのでしょう、だからこそ、信繁の死は信玄にとって何よりも辛く悲しいものだったのでしょうね


※当時この寺の名前は鶴巣寺と称していましたが、真田幸村の兄である真田信之が、かって武田の重臣であった事から武田信繁の菩提を弔う為、その名前を取って典厩寺と改めました

 

ずっと信繁の御墓参りに来たかったので来れて良かったです

どうかやすらかに…

f:id:kaori3211:20200730082211j:image武田信繁
f:id:kaori3211:20200730082157j:image首清めの井戸 討死した信繁の首を敵から奪い返し、井戸で丁寧に清めました
f:id:kaori3211:20200730082207j:image壊古の碑 両軍の戦死者の霊を慰める魂碑
f:id:kaori3211:20200730082226j:image上杉謙信の力試しの石(春日山城
f:id:kaori3211:20200730082222j:image信玄の躑躅ヶ崎館の愛石
f:id:kaori3211:20200730082215j:image
f:id:kaori3211:20200730082153j:image武田信繁の御墓
f:id:kaori3211:20200730082149j:image本堂
f:id:kaori3211:20200730082202j:image「武田、上杉両雄合戦の碑」川中島古戦場の史跡公園に建てられている一騎討ちの銅像は、この碑が原図となっています
f:id:kaori3211:20200730082219j:image川中島合戦記念館」この中は撮影禁止でした