戦国女士blog

戦国大好きな歴女子が、歴史探索をしてきた記事を載せてます(・∀・)

浅井長政 浅井氏の墓所(徳勝寺)

場所は 滋賀県長浜です
前回行った時は御住職お留守でしたので 今回はどうかな?思って行ったらおりました(笑)早速お話しを聞く
お墓は 浅井亮政 久政 長政が並んであります まずは御参り
その後本堂に案内されて長政の生い立ちを話していただきました。とてもお話好きな御住職で ずっと喋ってました(笑) とても楽しかったです
私「今 お墓の中には長政の御遺骨は入っておられるのですか?」 住職「いや 入ってない 菩提寺という事でお墓を作ったんですよ」と、いわれました 私「何か残ってるのですか?」と聞いたら お位牌と木造 そして何と!長政が小谷城で自刀した時の刀があるとの事で 早速見せていただきました。 刀については公開日が決まってるので 見れませんでした 命日の9月1日に公開さらるそうなので 休みが合えば是非行って見てみたい
小谷城落城後は秀吉が小谷に入りました 徳勝院は 当時小谷城の麓にありましたが 燃やされる事は無かったそうで 秀吉はそれをしなかったそうです手厚く保護したのだそう
秀吉が長浜城主になった時 徳勝寺もこちらに移されました その時に持ち出された物は今残ってる物で昔はもっと有ったと思われます、と言われました
ガラスケースには 浅井家三代 そして長政の娘 淀 江 初 万福丸の御位牌 あとは木造がありました
私「写真は良いですか?」聞いたら 住職「あーどうぞどうぞ撮ってください」言われたので 遠慮なく撮らさせていただきました
帰りに 特別にと御位牌にお供えしてある林檎🍎をあげるから持ってきなさいと言われ頂きました。めちゃくちゃ嬉しかったです😊

実はこの御住職 お寺を掛け持ちしてまして 何と‼️浅井家と因縁の相手と言われる六角氏の菩提寺だそうで 「任されてしまったので行ってます 少し複雑ですが…」言うてました(笑)
私「これも何かのご縁ですね」言いました(笑)
御住職は今で53代目だそうです

住職とても楽しい時間をありがとうございます とても勉強になりました✨

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f:id:kaori3211:20200627075541j:image長政 久政 亮政のお墓です
f:id:kaori3211:20200627075545j:image長政とお市の木造です 
f:id:kaori3211:20200627075553j:image亮政夫妻
f:id:kaori3211:20200627075531j:image浅井家三代の木造
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f:id:kaori3211:20200627075549j:image浅井家のお位牌です
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f:id:kaori3211:20200627075606j:imageりんご🍎もらっちゃった♪

 

 

森蘭丸・坊丸・力丸の供養

蘭丸の資料を買った時に気になる場所があり そこへ以前に行ってきました
ある森蘭丸の資料の中にこう書いてある
妙向尼(蘭丸の母)は本能寺で亡くなった最愛の三人の息子の弔いを兼山城北東の可児郡伊岐津志村中野(現 加茂郡八百津町西津)に一目千本卒塔婆を立て、沙門大衆の供養を受けて亡き三兄弟の霊を弔うために金山近郷の僧侶を請じて葬儀を行った
今もこの地には「せんぼどう」という地名は残っているが当時中野原は金山城下の内で 辺り一帯が広い野原であり 森氏の軍事用の施設の一部であった

信長から鳥峰城を頂いた可成によって城の名前が ここの山麓に祭られていた 南宮神社の祭神の名を借りて金山城としたとある

ここまでが資料の文だ

その"せんぼどう"には蘭丸、坊丸 、力丸の三兄弟の供養塔が有ったのですが 後に 森家の菩提寺である可成寺に移されました
'せんぼどう"の場所について資料館の方に聞いたのだが 兼山城から東へ400メートル行った中野と言う場所で 今は"せんぼどう"と地名ではないから ハッキリとした場所はわからない、と言われました

仕方ないので中野にある町役場に行き聞く事にした。そこでも"せんぼどう"の場所はわからない、と言われ 八百津の役場ならわかるかもしれないと聞いたので 行ってみたら ちょうどその日は郷土史家の方が居ますよ!と言われ会わせていただきました
話を聞くと"せんぼどう"はこの辺りで 本当は"せんぼと"と言い、元は首切り場であったのだそう
当時その場所は "なおれ"とも呼ばれており よくTVや映画でみる「そこになおれ!」と聞きますが まさにその"なおれ"の意味です

首切り場だけに その名がついていたそうな
森家の軍事施設の場所であるならば そうだったのかもしれない…
時が経ち 流石に なおれ と、いう名は縁起が悪いので中野に変わったのだそう
なぜそのような場所で蘭丸の母は葬儀を行ったのか…と、郷土史家の方もわからず のようでした
供養塔の有った場所は今はコンクリート工場になってました

資料の中には蘭丸の母 そして兄の長可の気持ちが綴られています

森長可本能寺の変の報を聞き信濃国から命がけで金山城へ帰城した
すぐに長可は母公の前にお出になられたが、ただの一言も、もの言わず、ただ涙にむせぶばかりであった
母公は長可の側に寄り鎧の袖をつかんで泣いた
「しばらくぶりですね、武蔵どの。さてもどうしようもない事です。世の中に、武士ほど はかないものはない。元亀の初めに三左衛門(夫・可成)殿に先立たれた時は、その事ばかりを考えていたが、あなた達兄弟5人がいること故、それを慰めにして しばらく歳月を過ごしてきた。
ここまで皆成長し、その立派な武者ぶりを見るにつけ、ああ、なんて器量ある者どもかな。
我が子に勝る者はおらぬであろう、と、人の持たざるものを持つように嬉しくて、朝夕姿を眺めて感動する時は、もはや三左衛門殿のことも忘れ、我が子を月よ花よと思い、私はなんという果報者かと、人にも語り、自らもそう思っておりました。
蘭丸、坊丸、力丸、3人ともに信長様へ召し出され、中でも蘭丸は器量人に勝る発明ぶりは他の者を抜きん出ていると耳にし、私は武運の久しからんことを、神にも仏にも祈り、子孫の繁栄を目にしたくて、我が身の百年の命をも祈りました。
それなのに、3人とも本能寺にて討死したというではないですか。
この身のよんどころなく、共に自害をもして果てようと、千度、と百度と思いました。
又、ある時は思い直して、主君の共をして華やかに討死するのは武士の面目と考えて忘れようとしました。
しかし朝夕、人が語るのを聴くにつけ、忘れるひまもなければ、何の因果でこの身は存命しているのかと考え、あの子達のもとへ参ろうと、我が如来様にお暇(いとま)を申し上げ、どうかお迎えに来てくださいと、日に何度も心乱していたが、武蔵どのも、仙千代もやがては帰って来てくれると待ちわびました。
道中危険があったと聞いておりましたが、よく恙無く帰って来てくださいました。
こうして逢うことが叶った事の嬉しさは、夢ではないでしょうか。」
妙向尼のこの言葉に、長可は涙を押さえて語った
「お嘆きなさいますな。そのようにおっしゃられても、この世は生者必滅、会者定離の習い、驚きなさることではございません。殊に武士の家に生まれたならば、戦場に出て、生きて帰ろうと思う者は一人もおりません。恩賞をむさぼり、利益を願う事は、家名をけがすのみでなく、子孫を滅ぼす事でございます。
武家にお生まれになられた上は、女性であっても、その道理をご存知ないはずがございませんでしょう。
お嘆きを辞め、念仏を怠らずに唱えてください。
母上の回向は、今生にては、我ら仙千代の為の祈祷となし、未来にては父・可成様と3人の者どもの為の祈祷となしてください。みな、一連の縁となりますようにとお祈りください。」
そうやって長可は様々にお諌め申し上げた。

母と兄の想いである…
苦しくも受け止めなければならぬ現実…辛かったであろう

私は 蘭丸、坊丸、力丸の遺骨を分骨しているのではなかろうか…と、思ってます 母の側に置いておきたいと思うのは母心です
本能寺が起きる前に3人から母へ手紙が来ており 「近々帰りますと 早く母の顔が見たい」と そのような事が書いてありました その夢も叶わずとなった今 3人を胸に抱きたいという思いでいっぱいであったろう

戦国の世とは…

 

今日も読んでいただきまして有難う御座います😊

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f:id:kaori3211:20200624220350j:image"せんぼどう"に有った時の 蘭丸、坊丸、力丸の供養塔
f:id:kaori3211:20200624220354j:image可成寺に移された 3人の供養塔
f:id:kaori3211:20200624220358j:image"せんぼどう"の場所 コンクリート工場
f:id:kaori3211:20200624220346j:image"せんぼどう"の地図です

 

 

大谷吉継の聞き取り調査

以前に紹介した もう一つの吉継殿の首塚について 身辺調査してきました

以前に紹介したblog↓

https://rekijoshi.hatenablog.com/entry/2020/01/10/232707


関ヶ原から揖斐の春日村に抜ける峠にある吉継の首塚 春日に下った所には古屋という村がある
そこに居る おばちゃんに話しを聞いた 確かに昔からの言い伝えで吉継の塚があると聞いていると言っていた そのおばちゃんは 40年前に この古屋に嫁に来て 古屋から関ヶ原に行くのに その峠を越して行ってて その時に ご主人さんから 「この塚は武将の大谷吉継の塚だよ」って教えてもらっていたそうです
春日の役場に行くと色々知ってる人居るかもと聞いたので 行ってみたら やはり春日では有名なのか役場の方達は その話しを知ってました それで "春日のむかしばなし"という本と春日町史を出して来てくれて 「ここに書いてあるよ」教えてくれました
ただ 読んでて 少し出てくる人物の名前(湯浅五助→岩倉五助)(藤堂高虎→ 青山新八郎)が違うので どうかと思いましたが 人物の名を調べると 青山新八と名で徳川家康の家臣として居たのがわかりました
だから 追って来たのが青山新八郎であるのも間違っていない事もないであろうと 思われます
昔話の本では 吉継の首の他に 金鉛と刀も一緒に埋めたと書かれてました
春日の町史のページ右上に載っている写真で春日にある吉継首塚以外の吉継のお墓は 今回は発見出来ずでした 又それはリベンジです

米原にある首塚 そして この古屋の峠にある首塚 どちらが本当なのか
だが こうして 春日村に言い伝えとして残って居る事にはまちがいはないのである

そして役場で 聞いたのだが 吉継の家臣である鳥居某が 春日村に落ち延び 村人に食べ物をねだったら 握り飯1つだけしかもらえず その近くにある楠木の下で「こんなひどい扱いを受けて恨んでやる」と、言って亡くなったのだそうです
時に今 ある時男の子がその近くを通ったら 鳥居某殿の霊が出て 「恨んでやる」と、言ったそうで その後に塚を建てたら 何も起こらなくなったそうです
その塚は 今もあります

て、事で 吉継の家臣も春日に落ち延びて居るという事は 吉継の首を持って春日に抜ける峠を来たのは有力であると思いたい

ただ 昔の事を そうである!とは言い切れないので その辺りは皆様の想像におまかせしよう

 

…とまぁ、これは以前に下書きをしたもので実はその後の真実というものを発見致しました

春日村に有る吉継の首塚も本物!そして米原にある首塚も本物!

何故なのか!実は春日村に一度作られた首塚であったが 後日米原へと首塚は移されたとの話なのだ

これも春日村の昔話に書かれてた事である

いつどのように移されたのかはわからない

 

こうして吉継の首塚は二つ有るのだという事は間違いないのである

 

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f:id:kaori3211:20200618213538j:image関ヶ原から 春日村に抜ける峠にある吉継殿の首塚
f:id:kaori3211:20200618213607j:image古屋から関ヶ原に抜ける道にある 看板
f:id:kaori3211:20200618213533j:image古屋の住民のおばちゃん
f:id:kaori3211:20200618213541j:image春日の町史
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f:id:kaori3211:20200618213545j:image春日のむかしばなしの本から
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郡上八幡城に纏わる伝説

郡上八幡城の伝説と言えば "およしの人柱"ですが まだ他にも伝説が残っています

"力石伝説"
八幡城主の遠藤慶隆が八幡城復帰後に八幡城を改修した節に、城下吉田川から人夫が川原石を背負い上げたといわれます
その中で剣村(現大和町)の通称赤髭作兵衛なる者が1m×75cm、約350kgの大石をひとりで背負い上げたというのだ!
普請奉行がその力量を深く褒めたたえた途端に彼はその場で倒れて息たえてしまいます…
普請奉行はこれを哀れんでこの石の使用を禁じたといわれます
昭和8年に模擬城の建設にあたり放置されていたこの石を八幡城庭園内に安置されました

昔は城を建てるのも命がけ どれだけの人が命を絶ったかわかりません
まさに城戦です そんな人達の苦労の思いも感じながら城を見るのも 又違った意味で城を見れると思います

 

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妙源寺 佐和山城の城門

場所は滋賀県彦根です
このお寺の門は 佐和山城の城門だそうで 見ると矢穴が沢山あります

当時が如何に凄かったかを物語っています

佐和山城の裏鬼門に位置するこの寺は佐和山の法華丸から移された寺だと言われています
 本堂は老朽化の為 今は新しく建て替えられてしまいましたが その前は三成御殿が移築されて本堂になっていたそうです

(新しくなった本堂を写したつもりですが写真が無かった💦)


そして、ここは井伊家の菩提寺でもあり 彦根藩第8代藩主井伊直定公の寄進より別棟で本堂が建立されてます
御住職に井伊家の本堂を見せてもらうと 井伊家のお位牌と直定の手書きの立て板 そして 観音様の下には 石経が敷き詰められているそうです
そして何か書かれた紙が入っていたようで 直定の歯がここに有りと書いてあったそうです 調べると出てきたそうです

 

当時の佐和山城の遺構がこうして残っている事が感動ですね

f:id:kaori3211:20200604080242j:image妙源寺
f:id:kaori3211:20200604080247j:image佐和山城の城門
f:id:kaori3211:20200604080309j:image矢穴があります
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f:id:kaori3211:20200604080312j:image井伊家の本堂
f:id:kaori3211:20200604080255j:image本堂の中、観音様の下に直定の歯かありました
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f:id:kaori3211:20200604080300j:image井伊家の御位牌

 

 

織田信長と浅井長政の戦い 光秀の陣所

以前に国友鉄砲の里資料館でスタッフの方と話をしていた時、小谷城の話しになり、その時スタッフの方が光秀は あの時何処に居たのか?って話しになりました。
以前虎御前山を巡った時には確かに光秀の陣所は無かった!光秀が信長と浅井の戦いに参陣をしていたはずである!
そこでスタッフの方が教えてくれたのが「虎御前山の西にある山脇山に光秀の陣所があったと言われていますよ」との事。こんな話しを聞いたら行かない訳にいかないでしょ!
って事で山脇山に行ってみた。
あ、因みに虎御前山に陣を張った信長勢は織田信長、多賀貞能、蜂屋頼隆、丹羽長秀滝川一益堀秀政、木下秀吉、佐久間信盛柴田勝家 錚々たるメンバーです
山脇山はスタッフの方が教えてくれた通りに虎御前山の西側にありました。元は古墳です 虎御前山もそうですが 少し小規模な山ですね。一週して様子を伺う、山脇山の南方角に何やら立て看板を発見!光秀の陣所である説明板でした! やはり有ったのか!説明板を読む。
昔の古地図には光秀の名前が記載されていた、そしてよく見たら森蘭丸の名前も有るじゃないか! なんと蘭丸もこの山脇山に陣を張っていたらしい

山の上には 此処である!っと定かではない為か 光秀の陣所を表す看板は立ってはいない…
今まで光秀は何処?なの?って疑問に思わなかったは不覚であった

しかし、今はこの山脇山 スマートインターが横断していてとても残念である

 

f:id:kaori3211:20200529081050j:image山脇山の南方角にある光秀陣所の説明板
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f:id:kaori3211:20200529081038j:image光秀陣所、蘭丸陣所が書いてあります
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f:id:kaori3211:20200529081045j:image手間虎御前山 右に小さくボコっと見える山が山脇山
f:id:kaori3211:20200529081026j:image山脇山の東から撮影
f:id:kaori3211:20200529081034j:image山脇山の北から撮影

 

 

あけっつぁまの明智神社

場所は福井市東大味です
明智光秀の歴史を調べに明智神社に寄りました(2回目だけど)
なんせ ココはモテ気のPowerも流れてるという事で それもあやかりに(笑)

と、言うのは冗談で モテ気の気は流れてるとかってのは ホントなのか冗談なのか そんな噂にはなってます
光秀の娘のガラシャが ここで産まれたという事から 絶世の美女であったガラシャ関連で モテ気なのでしょう

さて、来てみたのはいいが…
ん?隣の畑でおじさんが畑仕事してる まずは話を聞く事にしました
おじさんの話では 毎年6月13日の命日には お寺の住職さんがきて 法要をされるそうです ちょっとした祭り事のような感じです
祠の中には 木彫りで出来た「あけっつぁま」がおります 普段は 扉に鍵がかけられてるので 中は見れません
見れたとしても 実はこの中身は偽物だそうで 本物は 何処かの家に大切に保管されているとの事!盗まれては大変だからとの事です
本物が見たい方は6月13日昼13時くらいに 行かれると見れます
そんな時しか詳しく知る人も集まらないという事で 詳しく知りたい人は やはりこの日に来ると良いのだそう

当時は あけっつぁまが祀ってあった場所は今資料の置いてある小屋の場所にあったそうな
当時は大々的には光秀を祀るなんて事は出来る訳もなくひっそりと法要も行われておりました
明治に入り ようやく光秀を表向きに出す事ができ祠を移し建て 今の場所に"あけっつぁま"として祀りました

光秀にお世話になった家が当時から今に至るまで3軒で守ってきたのですが 今となっては 高齢化の為管理出来ないからと 町で管理する事になり若い人達に受け継がれ代々大切にされてきております

光秀のお墓も ちゃんとありますよ
光秀のお墓以外の4つは誰のか わからないと言われました(。-_-。)

今立ってる神社の周りにある大きな石ころは当時の物だそうです
そう! 実は この神社の辺りが光秀の屋敷だったって話なんです

そんなこんなで話をしている間に、おじさん一人だったのに 気づいたら おじさん2人になってました(笑)

おじさん 有難う御座います感謝です✨

この場所ですが非常にわかりにくい!一乗谷から南に山越えすると すぐあります
なんせ朝倉氏に仕えていた頃なので一乗谷から近いですよ

 

(過去に行ったものです)

 

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f:id:kaori3211:20200526095422j:imageあけっつぁまが中に
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f:id:kaori3211:20200526094421j:image光秀のお墓 以下は誰のかわからず
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f:id:kaori3211:20200526094418j:image水掘りかな
f:id:kaori3211:20200526094414j:imageこの辺り一帯が光秀の屋敷があったそうだ

f:id:kaori3211:20200526095801j:image当時の石
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