戦国女士blog

戦国大好きな歴女子が、歴史探索をしてきた記事を載せてます(・∀・)

明智光秀と称念寺(煕子の黒髪伝説)

場所は福井県坂井市丸岡町です
丸岡と言えば丸岡城 しか思いつかないと思われますが 実は明智光秀のゆかりある場所でもあります

光秀の生い立ちについてであるが 称念寺に伝わる寺伝には 光秀は子の頃の名を十次郎と言い 父は美濃國明智城明智光継 母は小牧 祖母を是空印と言いました
父の光継が亡くなり 是空印と折り合いが悪かった小牧は離縁させられてしまいます
小牧の腰元であった竹川が祖母にあたる若狭の西福庵の庵主様を頼り 小牧 光秀親子が身を寄せました
西福庵の本寺は称念寺なので 住職が共寺を行き来していたので 西福庵での光秀も称念寺の住職から 学問などを教えてもらう事もあったそうである
やがて小牧は 若狭の刀工である冬廣にお世話になり その後 十次郎(光秀)は 冬廣に連れられて京に上り 足利義晴の側人 細川藤孝に仕えます そして文武を磨き元服しました
光秀は 十次郎から明智十兵衛と名乗り ようやく明智城に帰る事が出来ました
やがて 妻木城主の妻木由左衛門の娘 煕子と結婚する事になります
幸せもつかの間 斎藤義竜が明智城に夜襲をかけて来て 戦うも光秀は敗れます 明智家を再興せよと叔父の光安の命に従い妻 子供を連れて越前に落ち延びます その行き先が幼い頃お世話になった住職の居る称念寺でありました
やがて住職の勧めで称念寺前で寺小屋を開き貧しいながらも夫婦力を合わせて浪人生活を始めたのです
光秀は 明智家を再興せよとの命を忘れる事なく寺小屋で子供達に学問を教えながら天下の情勢を怠りなく探っていました
称念寺は北国街道に面した時宗の念仏道場なので各地のお坊さんが出入りする事も多く 沢山の情報を得る事が出来ました

 

黒髪伝説
この話は光秀の話の中では有名な話です
光秀は称念寺で寺小屋を開きながら貧しい生活の中でも文武の修行は怠らず やがて住職の推薦で 越前の朝倉義景に仕官の口添えを得る事が出来ました 光秀にとっては又とないチャンス ですが貧しい為に朝倉の重臣をもてなす資金もありません

煕子は自慢の黒髪を光秀に黙って売り その資金で連歌の会を開きました 後に妻の煕子が 髪を売ってお金を工面してくれた事を知った光秀は「きっと今に天下を取って 妻の献身に応え 煕子を幸せにする」と、誓ったといいます
この光秀の夫婦愛のエピソードは その後北国の宿場で長く伝えられましまた

江戸期になり松尾芭蕉は紀行の途中で光秀の黒髪伝説を聞き その話に感動して 句を作ったといわれます
「月さびよ 明智が妻の 咄せむ」

この俳句は 称念寺の石碑にて刻まれております
今は寺門が 北向きにありますが 元は南側の北国街道側にありました
寺小屋も この南に有ったのではと思われます

こうして 浪人時代の苦労も幸せも 夫婦共に力を合わせ称念寺にて生活をしていた光秀の歴史が今もここに刻まれております

 

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f:id:kaori3211:20200517211902j:image北国街道側にある 元寺門があった場所で、この場所に光秀の寺小屋が有ったと思われます

 

 

 

信長と弟信行 稲生の戦い 稲生原古戦場

場所は名古屋市西区です

稲生の戦いとは織田家で起きた織田信長とその弟信行との家督争いから起きた戦いです
織田信秀(信長、信行の父)が急死し跡を嫡男である信長が継ぎました
一方 信長の弟である信行は兄とは離れ末森城に居住します
父の残した勢力を着実に拡大していった信長であったのだが 信長は素行が悪く「うつけ者」と呼ばれるほどであったのに加え 家老であった平手政秀が自刃する事件が起こり家中からは頭領に相応しくないとされました
信長では織田家をまとめられないと考えた宿老の林秀貞とその弟林美作守、信行老臣の柴田勝家らは信長を排除し 家中でも評価の高い信行に家督を継がせようとした  そして信行自身も織田家代々の名乗りである弾正忠を自称したり 信長の直轄領である篠木などを押領し砦を構えるなどして反抗の意思を示します
このような不穏な動きは信長の察知するところとなり佐久間盛重に命じ名塚に砦を築かせました
そして稲生原での合戦に至る事となりました
信長軍が清洲から南東にある庄内川を越えたところで東から来た柴田軍と南から来た林軍との戦いが始まります
信長公記によれば信長方の手勢わずか700人に対し 信行方は柴田勝家が1000人林秀貞が700人の合計1,700人!
正午頃 信長軍の約半数が柴田軍に攻めかかったものの兵力差に加えて戦上手で知られる柴田勝家の活躍があり信長方は佐々孫介(佐々成政の兄で小豆坂七本槍の一人)ら主だった家臣が次々に討たれるなど苦戦を強いられ 柴田軍が信長の本陣に迫った時には信長の前に織田勝左衛門・織田信房・森可成と鑓持ちの中間40人ばかりしかいないという危機に立たされた
しかし織田信房・森可成の両名が前線に立って戦い清洲衆の土田の大原という武将を返り討ちにするなど奮戦します その時 信長が敵に対して大声で怒鳴ると身内同士の争いだったこともあり柴田軍の兵たちは逃げていったという(信長が尋常でない大声の持ち主だったことはフロイス日本史に記録されている)
勢いを取り戻した信長軍は次いで林軍に攻めかかった 戦いの中 林美作守が黒田半平と切り結んで息が切れたところに信長が打ちかかり槍で突き伏せて討ち取ったのを始めとして信行方の主だった武将を含む450人余りを討ち取ります
こうして信行方は崩れ敗走しました
その後 信行は末盛城、那古野城に篭城するが それに対し信長は両城の城下を焼き払ってしまいます

負けてまった信行は母である土田御前の取りなしにより助命され清洲城で信長と対面して許された
後に信行は再度謀反を企むが既に信行を見限って信長に与していた柴田勝家に騙され信長が病に臥していると聞き訪れた清洲城の北櫓 天主次の間で信長の命を受けた河尻秀隆らに暗殺されてしまいます これが信行の最後です
これにて織田家家督争いの決着となりました

・名塚砦
稲生の戦いにて 信長が築かせた砦です 今は名塚白山神社になっています
庚申塚から北へ数百メートル行った場所にあります

・稲生原古戦場
戦死者達を弔う庚申塚があります
ここにて手を合わせてきました

 

今日も読んでいただきまして有難う御座います😊

 

f:id:kaori3211:20200514103052j:image庚申塚 稲生原古戦場跡

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f:id:kaori3211:20200514103101j:image供養塔
f:id:kaori3211:20200514103114j:image名塚白山神社 名塚砦
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信玄の側室 諏訪姫(諏訪御料人)建福寺

場所は長野県伊那市高遠町です

病に倒れた武田信玄の後に武田家を相続したのが武田勝頼です
信玄の四男として側室の諏訪姫との間に生まれました 諏訪姫は信玄によって滅ぼされた諏訪頼重と側室小見氏との間の娘であり 父の仇である信玄に愛されました
一目諏訪姫を見た時から その美貌に惚れてしまった信玄は 諏訪姫を自分のものにしたくなります その事で武田家中に反対論があったと言われ山本勘助が家中を説得したとする逸話を記しています
なにせ史料が殆ど無いにひとしく生年も名前も消息も明らかではない為 中々調べるには難しい

諏訪にある図書館には諏訪姫の本がある それには 敵将に嫁いだ事で 憎き相手である信玄にいつしか心惹かれていく諏訪姫が描かれていました  信玄に寵愛され息子の勝頼も生まれ幸せの絶頂であった だが幸せはいつまでも続かない 信玄が他に側室を作ったからだ 心を病んでしまった諏訪姫は諏訪に返される事となった いつしか病に倒れ 若くして諏訪湖に身を投げるのでありました…

と、いったようなストーリーでした

諏訪姫が諏訪湖に身を投げて死んだのであれば 信玄が諏訪湖に自分が死んだら沈めてほしいと言った思いもわからなくもない 信玄は諏訪姫を愛していたのでしょう

悲しきお話でした…

こんな話を知ってか 諏訪姫のお墓に手を合わせに行きました

どうか安らかに

 

2019年4月訪問

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小西行長のお墓(明泉寺)

場所は岐阜の垂井です
以前にご紹介しました 小西行長関ヶ原逃走劇!覚えていらっしゃいますでしょうか?

関ヶ原の戦いで敗れた小西行長は揖斐春日村に逃げ中山村に隠れていました その後村人の密告により竹中重門に捕縛されます
行長は 京へ送られた後に処刑され遺体はカトリック式に埋葬されたが重門の家臣が首を秘かに持ち帰りここ明泉寺の裏の竹藪の中に埋葬したという話が伝わっているのである
行長は 捕まえた時に 村人を恨んで祟ってやると言い残していきました
そんな事も有り祟りを恐れたのか 垂井にまで首を持ち帰り竹中家である ここで供養したのであろうか…

あの時逃げる事を諦め自ら自分を重門に差し出し捕まったとも言われているし…

重門が 行長の思って供養をしたいが為に持ち帰ってきたのか それは謎である

ここ明泉寺は 竹中半兵衛の父親の兄?弟?の家であり 今のご住職は その末裔にあたります
ご住職から以前に聞いたくせにウル覚えで申しわけない( ˘ω˘ )

住職の奥さんが小西行長のお墓まで案内してくれました✨
竹藪の中です 私有地なので勝手には入れません!

竹藪を入って行くと横に小さな川が流れておりとても静かで空気がスン!としてました

少し入ってすぐに小さなお墓がありました

手を合わせます、どうか安らかに(´-ω-`)

 

ちなみに 小西行長の位牌と肖像画は春日村の中山観音寺にあります
見たい方は 事前にてお電話が必要です

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美濃三人衆 安藤守就菩提寺 龍峰寺

西美濃三人衆の1人安藤守就(安東とも言う)のお墓詣りに昨年の夏行ってきました
山奥にある集落だ
中に入ると ちょうど住職さんがお見えになり 色々話が聞けた
元は この寺 岐阜の北方にあり 名前が 了法寺とついてたそうで こちらに移ってきて龍峰寺に変わったのだそうです

住職は このお寺に来て30年で元は無住職の寺だったそです
住職自身は歴史に詳しくなく 初めて来た頃は 安藤守就の事は知りませんでした
でも このお寺に来たからは 何かのご縁であると 安藤守就の事を勉強されたそうです
元はお寺の状態もあまり良くなく雨漏りが酷かったそうで 守就 そして家臣達の位牌を見つけた時には 腐って朽ちてたそうで 住職が修復して今のチカチカな状態になりました
村の長老の話では 守就の甲冑や刀も有ったそうなのですが それは盗まれてしまったとの事です
甲冑があるかも!と、思って行った私は泣いた(ToT)
でも位牌は残ってて見せてもらえたので満足です
元の朽ちてた状態の位牌と比べても とても綺麗に修復してもらえて 住職の心意気に感謝です
一般で位牌を見せたのは 私が初めてだそうです (嬉泣き)

たまにテレビ局から 安藤守就の事で取材したいと連絡が来るそうですが
向こうから足を運んで来る事はなく 写真を送ってください だ、そうで!
取材したいなら来いや‼️って思った

いつも思うのですが ご住職さん達は 武将さんの事をとても手厚く大切にしてくださるので いつも感動して泣きそうになります

其の後は お墓の場所を教えていただき 花をお供えしてきました
どうか安らかに

てな感じで 自分の休日は ほぼ歴史探索に明け暮れております(今はコロナで自粛中ですが😭)
頭の中は戦国歴史でいっぱいです
こうして 沢山の出会い巡り合わせに感謝しつつ 今後も歴史を巡ろうと思います

 

読んで頂きまして有難う御座います😊

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f:id:kaori3211:20200506081414j:image安藤守就 他家臣の お墓になります

f:id:kaori3211:20200506081537j:image最初は一番左にある位牌の状態でした
f:id:kaori3211:20200506081533j:image修復された 安藤守就の位牌です
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西美濃三人衆の1人 氏家ト全のお墓と戦死跡地

場所は岐阜の海津です
ト全は土岐頼芸斎藤道三→義龍→龍興に仕えたが龍興とは折り合いが悪かったとされており 以後は稲葉一鉄安藤守就と一緒に織田信長の家臣として仕えました

この三人を合わせて西美濃三人衆と言います
この頃に卜全と名乗ったと言われます

長島攻めでト全は川西(多芸山太田口)に柴田勝家らと共に布陣しました、織田軍が撤退する際に殿軍を務めたが5月12日に美濃石津郡太田郷安江村七屋敷で六角一族の佐々木祐成に討ち取られました 59歳卜全の最後である

随分と前から菩提寺は無いのかと調べてはいたが どうも見つからない
とりあえず 海津市役所に行き話を聞く事にした
聞いた内容としては ネットに書いてある事くらいしか情報は分からなかった

市役所で聞いて一つだけわかった事は 氏家ト全の事を調べていたお寺のご住職の名前と、その方が書いた物が少しである 

話を聞きたくてもその方はもう亡くなっていると言われた…
市役所を出て卜全のお墓に向かう!養老鉄道の線路の東にある。ほぼ田んぼだ…なんであんな場所にポツンとあるのか 寂しい場所だ

実は卜全の墓は元々違う場所にあり封土(土を盛ってある)の古塚であった その後何者かによって 宝篋印塔に五輪塔を交えて組み立てたお墓が建てられたのだ
明治になり川が近く洪水の際 堤防修理の為に この墓を運び 今の場所に移動させたのである

お墓に手を合わせ その後向かったのが 卜全の首を洗ったと言われる場所だ ここは 海津大橋を東に渡る手前の信号を右に曲がり道なりに少し行くと 右手に"ト全の澤"と書いた碑が建てられている
昔の住所名からして七屋敷と言われた場所であるので この辺りは屋敷が建ち並んでいたのだろうか と、思ったりもした そして "澤"と、書いてあるので ココに澤が有って 卜全の首を洗ったのだろうと 想像した
石碑には こんな事も書いてある[卜全戦死跡] ここで亡くなったのか…
胸が切なくなった…
ここにも手を合わせ 市役所で教えてもらっ"圓満寺"に向かい話を聞こうと思って行ったが 勿論 その住職は 亡くなったのでわからない…

その後寺を継いだ住職は歴史に興味が無く 全くわからないと言われた💦残念だがしかたない

西美濃三人衆の3人の中で菩提寺が無いのは氏家ト全だけである
もっと弔ってもらえる場所が欲しいところである 又手を合わせに来よう

 

今日も読んで頂きまして有難う御座います😊

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f:id:kaori3211:20200504182416j:image卜全戦死跡地
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石山本願寺軍師 土岐蔵人 (善永寺)

場所は岐阜 本巣文殊です
本巣の文殊という場所は とても歴史深いお寺が沢山あり、その中でも戦国時代に関わる話が沢山残っています
今日はその一つを紹介しましょう
岐阜県山県市にあった大桑城が斎藤道三によって落城すると 美濃の守護大名であった土岐頼芸は現在の本巣市に逃れ土岐氏も衰退していきました
その土岐氏の一族であった土岐蔵人が本巣市文殊に移り住み本願寺顕如上人に帰依します
本願寺織田信長石山合戦が始まると土岐蔵人は本願寺の軍師として活躍したといわれ石山合戦が終了すると本願寺の陣鐘(麒麟鐘)を顕如から与えられ山県市にあったお寺を本巣市文殊に移して再興し善永寺を開創しました

土岐氏本願寺の軍師で有った事が ここで新たにわかりました
寺の家紋は桔梗です

 

今日も読んで頂きまして有難う御座います🥴

 

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f:id:kaori3211:20200429080555j:image顕如から与えられた陣鐘
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