戦国女士blog

戦国大好きな歴女子が、歴史探索をしてきた記事を載せてます(・∀・)

真禅寺 鬼武蔵 森長可の首塚 小牧長久手合戦

場所は岐阜 可児です

森蘭丸の兄である兼山城主森長可は信長の死後秀吉に味方して「小牧 長久手の戦い」に加わったものの流弾が眉間に当たり天正12年4月9日27才で果てました
家臣達は遺体を居城兼山に運んで手厚く葬ろうと決意しました
しかし、長久手から北へ向かうには敵の大将家康の本陣のある小牧の下を通らねばなりません この難関を突破するため遺体の胴と首を分けてまず胴を埋め首を大切に抱いて犬山から石原土田へ間道を抜けようとしました
ところが土田城主生駒氏は前年に自分の城を焼いた森長可の遺体がここを通るにちがいないので それを横取りして家康に差し出そうと待ち伏せしました
遺体は木曽川手前の土田の刎橋(はねはし)の見える所までやってきました 遥か東方に兼山城も見えます
その時 見張りが飛んで来て刎橋に敵の一団がいるために通れないことを知らせました
刎橋とは必要以外は網で吊り上げて通れぬように考えた橋です
小牧山の難関は胴を捨てて首だけにすることによって通れましたが刎橋を落とされては兼山へ帰ることは不可能です
そこで涙をのんで石原の真禅寺に戻り主君長可の首を裏山に丁重に葬りました
森長可の死後 長可が出陣前に書き残した遺言状がみつかり それには「武士はいや、吾が跡目くれぐれもいやにて候…」と書いてありました
そこで妻は次の城主を末弟忠政に譲り自らは二児を連れ真禅寺のある石原に移り住んだということです

今も長可の末裔はこの地区に住んでおります
真禅寺の長可のお墓は子孫の方が守っています
ただこのお寺の方管理してる訳でもなく その墓だけは歴史に基づいて作られたので墓だけを子孫と市が管理しています
以前の住職さんは10年前に亡くなったのですが この墓をとても大切にしてくださり管理もしてくれていたのですが 亡くなってから跡取りが居ないという事で他所から今の住職が変わってきました 今の住職に変わってからというもの 長可の墓は一切関わりないからと管理もしてかれず 市や子孫の方が来ても良い対応もしてくれず 中々手付かずになってきてしまっているそうです
私が見る限りでも 殺伐として荒れ果てた状態でした

このままで良いのか! こんな扱いで良いのか!憤りを感じます!
寺の事務所の方に少し話をしたら
墓を今の森家の菩提寺に移すのかどうなのか、と、いった話も出てるとか出てないとか
歴史ある場所に 歴史の物が有って何が悪い! なぜ大事に出来ない!
とても悲しくなります

可児市役所に行き観光協会の方と話をしてきました
やはりその問題について困ってるとの事 ほんとは大々的に観光場所として長可の首塚の紹介をしたいが 住職があんなだから出来ないとの事 事をおおごと にすると余計酷くなると

まさか こんな大きな問題になってるなんて…

観光協会の人は 明智光秀の大河で 可児市が取り上げられて 森家の事が少しでも上がり話題になれば もう少し住職も気持ちが変わってくれるのでは と、思っているみたいだが 難し問題です

ここはコアなファンしか知らない場所なので ファンが 少しでもお参りに来て手を加えてくださればと思っていますと 観光協会の方はおっしゃってました

どうか 皆さんも長可に手を合わせに来てやってください

 

読んで頂きまして有難う御座います😊

 

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f:id:kaori3211:20200125073006j:image真禅寺
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f:id:kaori3211:20200125073026j:image長可首塚
お花を供えて手を合わせてきました
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