戦国女士blog

戦国大好きな歴女子が、歴史探索をしてきた記事を載せてます(・∀・)

佐久間氏の城 御器所西城跡

場所 名古屋市昭和区御器所です

佐久間と言えば佐久間信盛を思い出しますが 織田家家臣には 他の佐久間氏もいました 御器所は その佐久間氏の居城となります

御器所にて産まれた 佐久間盛政と言う人物についてお話ししましょう
盛政の叔父は佐久間信盛 柴田勝家です
盛政は身長が約182センチメートルで かなりの巨漢であったといわれます
叔父の柴田勝家が越前一国を与えられた際にその与力に配され柴田軍の先鋒を務め 以後 北陸の対一向一揆戦などで際立った戦功を挙げ織田信長から感状を貰っています

私が盛政を調べていた中で一番盛政という人物に興味が湧いた話をお話しします
賤ヶ岳の戦いで秀吉に柴田勝家は負けてしまい 叔父の勝家に着いていた盛政は再帰を図って落ち延びようとします
落ち延びる途上 盛政は越前府中付近の中村の山中で郷民に捕らえられてしまいます
命運の尽きたことを悟った盛政は自ら直接秀吉に対面したいので引き渡すよう言いました(盛政を引き渡した郷民は直ちに処刑された)
引き渡されたとき浅野長政に「鬼玄蕃とも言われたあなたが何故敗れて自害しなかったのか」と馬鹿にされたが「源頼朝公は大庭景親に敗れたとき木の洞に隠れて逃げ延び後に大事を成したではないか」と言い返し周囲をうならせたといいます
秀吉は盛政の武勇を買って九州平定後に肥後一国を与えるので家臣になれと強く誘います しかし盛政は信長や勝家から受けた大恩を忘れることはできず秀吉の好意を感謝しながらも「生を得て秀吉殿を見れば私はきっと貴方を討ちましょう いっそ死罪を申し付けて下さい」と願った 秀吉は盛政の説得を諦め その心情を褒め称え武士の名誉である切腹を命じたが盛政は敗軍の将として処刑される事を望みます そのため秀吉に「願わくば車に乗せ縄目を受けている様を上下の者に見物させ一条の辻より下京へ引き回されればありがたい。そうなれば秀吉殿の威光も天下に響き渡りましょう」と述べました
秀吉はその願いを聞き届けて盛政に小袖二重を贈るが盛政は紋柄と仕立てが気に入らず「死に衣装は戦場での大指物のように思い切り目立ったほうがいい、あれこそ盛政ぞと言われて死にたい」と大紋を染め抜いた紅色の広袖に裏は紅梅をあしらった小袖を所望し秀吉は「最後まで武辺の心を忘れぬ者よ よしよし」と語って希望通りの新小袖2組を与えました
盛政は秀吉により京市中を車に乗せられて引き回されたが、その際に「年は三十 世に聞こえたる鬼玄蕃を見んと貴賤上下馬車道によこたわり男女ちまたに立ち並びこれを見る。盛政睨み廻し行く」とある
その後、宇治 槙島に連行されて同地で斬首された 盛政の最後である
秀吉は盛政の武辺を最後まで惜しみ せめて武士らしく切腹させようと連行中に密かに短刀を渡す手配もしたが盛政は拒否して従容と死に臨んだといわれます

辞世の句は
「世の中を 廻(めぐ)りも果てぬ 小車は 火宅(かたく)の門を 出づるなりけり」

盛政なる人物 武士の散り様 立派であった!

御器所城は 今は以降は残っていません 尾陽神社になってます

今日も読んでいただきましてありがとうございます😊

 

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人柱およしと善光寺 

郡上八幡城の改修工事で人柱となった"およし"の話は御存知でしようか?

改修工事に使われる材木を乗せた荷台が重く、何人もの男達が押しても全く動かなかった

そこにおよしが加わると今からまであれだけ動かなかったのに、スイスイと動くではないか

およしが手を離すと動かなくなる

そんな不思議な力を持つおよし

城の柱を立てるのに何度やっても立ちません

昔からの呪いで人柱を立てる事となり、人柱におよしが選ばれたのでした

およしの両親や村人達が猛反対しました

だがおよしは城の為お殿様の為と命を捧げる事にしました

そうして完成したのです

悲しきお話ですね…

郡上八幡城には、およし観音が有りおよしの霊が祀られている
だが、およしの本当の祠は郡上八幡城の下にある善光寺にあるのだ

元は殿町の辺りに有ったのだが月日が経つ事に人々はおよしの存在を忘れて行くようになりました
善光寺の昔の御住職が本堂でお経を唱えていると御住職の後ろに毎日およしが立つようになりました
「どうか私をこのお寺に祀ってください」と、お願いしてくるのです
毎日来るので御住職は「本物ならば証拠になる物を何か置いて行きなさい」とおよしに言いました
およしは着物の袖と草履を置いて行きました
それからというもの、およしの祠は善光寺に移し祀られたのです


ある時、今のご御住職の奥様が近所に住む高齢のお婆さんにある話をきいた
大正時代になり、大そうな火事が郡上八幡城の麓付近で起きた
広範囲で燃えたにも関わらず火事の起きた範囲に入っていた善光寺は燃えず、その周りは燃えてしまったのだと
お婆さんはこうも言いました
「およしさんを忘れるような事をすると火事になるのだよ」と


事実はどうかはわからない


私は思う、善光寺はおよしに救われたのではないかと
およしは城の為に人柱になった
そして郡上八幡城は完成したのです


ただ忘れてはいけない
およしという存在を


読んで頂きまして有難う御座います

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f:id:kaori3211:20201013074539j:imageおよし観音

池田恒興・元助 父子の墓所

岐阜の池田町には池田恒興とその息子の元助の墓があります
恒興の父 恒利は美濃池田氏の池田政秀に男子が出来なかったという事で政秀の娘である養徳院の婿として養子に入りました
美濃池田氏を継いだのですね
そして この2人の間に産まれたのが恒興でした

恒興の父 恒利は元は尾張の人で織田信秀に仕えており 織田家とは深い関わりがありました
その頃 母の養徳院は信秀の息子 信長の乳母を務めており 後に恒興の父 恒利が亡くなると 養徳院は信秀の側室となりました
恒興と信長は乳兄弟として その後家臣として一緒に居る事となります

小牧長久手の戦いでは池田恒興・元助の2人は命を落とします

池田氏であった事から出生地のここに2人の墓は建てられました
父の恒利のお墓もこの近くの龍徳寺にあります

ちなみに池田氏は元は土岐氏であります なので池田恒興土岐氏なのである

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信長様とこじき

関ヶ原の山中には常盤御前の墓と伝えられる碑が立っている織田信長岐阜城に居る頃京都への上り下りにここを通ると、いつも道端に体の不自由なこじきが居た
雨が降る日は雨に濡れ、風が吹く日は風に晒され同じ所に座っている
信長は不思議がって村の者を呼んだ「こじきという者は住まいを決めず物を求めて歩くのが普通だ、それをあのこじきはいつも同じ所に居る。何か訳でもあるのか?」と聞いた
「はいはいあの者はこの村の中山という所の者で御座います。昔先祖が常盤御前という方を殺したむくいで代々体の不自由な者が生まれ山中のサルと呼ばれ、あのようにこじきを致しているので御座います。」村の者は恐る恐る申しあげた
信長は頷いたが次にここを通った時に村の者を呼び集めた
信長様の事だからどんなおとがめがあるかとビクビクして寄っていくと
「木綿に二十反こじきに取らせるぞ、その半分で村の者はこじきに小屋を建ててやれ」と、思いがけない言葉だった
そして隣の村の者にまで「麦が獲れた時は麦を、米が取れた時は米を少しでもいいから恵んでやれ」と、言いつけられたので、こじきは言うまでもなく中山の者まで涙を流さない者はいなかった


と、昔昔のお話です
信長様の心意気を感じます


常盤御前のお話
常盤御前は名高い牛若丸の母で大変な美人だったという

牛若丸が十六歳の時に元服をして九郎義経となった
義経が奥州に落ちたと聞いて常盤御前は我が子の後をおって少女を一人連れて都を旅立った
ところが何しろ世の中が騒がしい事だから悪い奴等は何処にも居た、熊坂長範という後に世にも伝わる程の悪党が居た
運悪く二人は山中の里で捕まって金を盗られ着物を剥がされ、その上助けておいては後々面倒だと殺してしまったのだ
村の者が哀れんで、ここに二人の亡骸を埋めた
その後義経が立てたのが今の碑だと伝えられている
長範はその後義経にバッサリやられたというが、何処でいつやられたかはハッキリとしない


悲しき物語で御座います

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大桑城のむかし話

山県郡の大桑に金鶏山という山がある、昔この板垣に大桑城というお城が建っていた

ここに美濃国守であった土岐頼芸が逃げ込んできた
斎藤道三に稲葉の城を追われたからである
頼芸を一気に滅ぼしてしまおうと道三の軍勢は長良川を渡り金鶏山の南の麓にある栢野が原まで押し寄せてきた
下から見上げると大桑城はいかにも小さく見すぼらしく思えた
勢いにのる道三の軍の前には、こんな城はひとたまりもないようだった
そこで道三の軍は「わあーっ!」と時の声をあげると山の上の城めがけて攻めかかった、ところがそう簡単な事ではなかった
頭上から雨のように矢を射掛けられ大石や大木を落とされ道三の軍は沢山の死者やけが人を出して麓まで追い落とされてしまった
甘く見縊っていたのが思わぬ結果になってしまったので道三勢は益々カーッ!となって再び山に取り付いて攻めたてた
ところが今度も同じ事、道三は大損害を被って引き下がらなければならなかった
そこで道三の軍は考えて一隊が金鶏山の北麓にある青波という部落の方へ周り裏の搦手から攻めてみようとしたのだ
だが、この計画も駄目だった
攻めかかった道三勢は正面からと同じように散々な目に合わされ退くしかなかった
どうしても上手くいかなくてイライラした道三の軍勢の1人がこの頃耳寄りな話を聞いてきた
それは青波で餅を商っているおばばが、この山の辺りの事に詳しいという事であった
早速おばばが呼び出された
「どうじゃ、おばば何とかこの城を落としたいのじゃが良い方法はないか?」
するとおばばが言った
「火道を作って攻めるがええ」
「何?火道じゃと?」
おばばの話を聞いた道三の軍勢はこれは良い方法だと手を打って喜んだ
それから道三勢は変な仕事を始めた 
山の麓から城の下に向かってニ、三間幅に草を刈り木を切り倒していったのである
日が経って切り伏せた草や木はすっかり枯れ茶色の帯が麓から城の下までずっと続いた
火は勢いよく燃え上がり風を巻き起こしごうごうと城へ押し寄せた
城は炎に包まれた
そこへ「わあー!」とばかりに攻め上がって来た道三の軍勢に土岐勢はひとたまりもなく崩れ去った
頼芸はわずか七人の家来に守られながら北国へと逃げて行った
こうして道三の軍を悩ませた大桑城は落ちた
この後青波のおばばが話した計略が元でこうなったと伝わり大桑城の村人達は頼芸ひいきしていたので、この話を聞くと
「俺達の殿様を滅ぼした奴だ」と言って、おばばを憎んだ
おばばだけでなく青波の村の人達皆に反感を持つようになった
青波の者とは嫁取り婿入りしないという話が大桑に残っていたのも大桑城落城の事が元になっていたのだろう


嫁取り婿入りの話は本当で、近年までそうだったそうな

道三勢が火を放ち城を攻めた場所を火焚き口と言う

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馬場信春(信房)教来石民部屋敷

場所は山梨県北杜市白州町鳥原です
馬場美濃守信春の出自は美濃の土岐氏一族という説と武田氏一族という説の2つがあります
土岐氏説は土岐光衡の子孫が教来石村に土着したという説です
ここ山梨には土岐氏が美濃から武田を頼って行ったという話は多々あります 元に甲斐に住む土岐氏出は多いです
武田氏説は一条信長の孫 広政が教来石姓を名乗ったことに始まります 一条氏は他の武川衆の祖でもあり こちらの説も気になるところです
その一条氏は鎌倉時代初期に甲斐守護となった武田氏一門で武田氏の祖 武田信義の嫡男 一条忠類を祖としますが源頼朝に粛清されました
その弟 武田信光が兄の名跡を子の信長(織田信長ではありません)に継がせて復興しました
一条氏の子孫には信濃との国境地帯を守った武川衆があります 教来石氏はその中の一族とされてます
さて、どちらが誠の事なのか…気になるところですね
私的には美濃守と名前が付いているので土岐氏ではないかと思ってみたりするのですが… 美濃守の名も頂いたものだとされてますし…
なぜ信春にわざわざ美濃守を名を受け継がせたのか それも気になるww

教来石氏といえば後に改名したのが馬場信春
馬場信春の初名は教来石景政で先祖代々の民部少輔を名乗っていました なので「教来石民部」は教来石氏の当主を指すことになります

馬場信春武田信玄の命により馬場氏の名跡を継ぎ馬場信房と改名しま
馬場氏も出自が不詳ですが教来石氏と同じ武川衆に属していました
その馬場氏に教来石氏から養子が入っているので元々両氏は同族という事になります
馬場氏は馬場虎貞が武田信虎の逆鱗に触れて殺され絶えていました
教来石景政(馬場信春)は初陣後メキメキと頭角を現します
武田信玄は父武田信虎を追放すると同盟を結んでいた諏訪氏を侵略
更にこの時諏訪氏と組んで敵対した伊那地方を支配下に収めました おそらくこの時に教来石景政は大活躍したのでしょう

 

て、事で行ってきたのは良いが今は立ち入り禁止になってます なぜだー…
発掘作業中と書いてありますね…
でも草ボーボーで とても発掘作業しているようには思えません( ̄▽ ̄;)
手付かずの状態なんですかね
中に入れなくて遺構すら見る事はできませんでした

 

二年前の訪問ですw

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"赤かべの城" 苗木城の昔話

苗木城にはこんな昔話が残っています

木曽川が左に曲がって渕がある
底もわからない深い渕だ
昔そこに竜がおった

その竜を見た人がおると言うが、その人の話によればこうだ
二日も三日も槍のような雨が降り続いて、それはやっと小雨止むと川の上に霧が立ち込める
川の幅いっぱいに霧が立ち込め、それが川の形のままうねっておる、川も白い竜のようじゃが、そこから出し抜けに白い竜巻が起こって空に登った。それがほんと竜じゃった、銀の髭の突っ張った竜の顔も見えた
竜が白い尻尾で川の水を叩くと水が又逆巻き霧の中を吹き上げる、ほんの僅かな合間だったが、俺は確かに竜を見たとその人は言う
その渕を見下ろす山の上に苗木城がある
その苗木城を作った時の話じゃが、殿様は初めお城の壁を白く塗らせた
出来上がった城が山の上で白く輝くように見えた時、殿様は「良い出来栄えじゃ、気に入ったぞ」と、喜んだ
ところがある夜酷い嵐が吹きまくり、あくる朝見ると他はどうもなっておらんのに白壁だけがすっかり剥げて元の赤土色になっていた
殿様は早速白く壁を塗り直しましだが、その日の夜又酷い嵐が吹いて、あくる朝見ると白い壁はすっかり剥げ落ちて又元の赤土色になっていた
はてな?」殿様は首を傾げたが、気を取り直して又々白く塗り直した
どうじゃ、又その夜嵐が吹き、朝見ると赤土色の壁になっておる
「こりゃおかしい、何か訳があるに違いなかろう、そうだ与三郎を呼べ」
与三郎というのは苗木城下での物知りだ。与三郎さに聞けばこの世でわからなぬ事はないと評判のお爺さんだ
殿様が一部始終わ話すと、与三郎は首を傾げて考えておったが「そうですな白い色がいけないので御座います」
「何故に白がいけないのじゃ」と、殿様は聞きます
「殿様は若くて昔の事をご存知の無いのは最もで御座いますが、この辺りでは馬でも犬でも白いのを飼いませぬ」と、与三郎
「それは又どうしてじゃ!」と、殿様
天正の頃、ご先祖様の遠山殿が戦に負けて岩穴に隠れておられました時、白い犬が鳴いて敵が攻めて来た事を知らせました。又その時、何処からか白い馬が現れ、遠山殿をお乗せし、それでもって難を逃れられました」と、与三郎
「うむ」と、殿様
「それに、城下を流れる木曽川に住んでおります竜も白う御座います。竜神と同じ色ではどうかともぞんじます。世間では竜神の祟りやと言う者もおるくらいで御座います」と、与三郎は話ました。
殿様は暫く考えていたが、主な家来達を呼び、壁を白くする事は止める事に決めた
苗木の山の頂上の二つの大きな岩に跨り四巻四方三層の屋根を持つ天守は、それからずっと白壁になる事は無かった
その方が飾り気のない苗木の衆の気っぷによく似合うのであった
城は取り壊されたりして、今は城跡があるだけだが、石段と石垣が昔の形をそのまま残しておる
苗木城は、赤壁城、高森城、とか霧が城とか、名前が色々ある 

実は遠山殿が隠れた穴ってのは現実にも有るのです

 

昔〜し昔のお話でした

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