戦国女士blog

戦国大好きな歴女子が、歴史探索をしてきた記事を載せてます(・∀・)

信長様とこじき

関ヶ原の山中には常盤御前の墓と伝えられる碑が立っている織田信長岐阜城に居る頃京都への上り下りにここを通ると、いつも道端に体の不自由なこじきが居た
雨が降る日は雨に濡れ、風が吹く日は風に晒され同じ所に座っている
信長は不思議がって村の者を呼んだ「こじきという者は住まいを決めず物を求めて歩くのが普通だ、それをあのこじきはいつも同じ所に居る。何か訳でもあるのか?」と聞いた
「はいはいあの者はこの村の中山という所の者で御座います。昔先祖が常盤御前という方を殺したむくいで代々体の不自由な者が生まれ山中のサルと呼ばれ、あのようにこじきを致しているので御座います。」村の者は恐る恐る申しあげた
信長は頷いたが次にここを通った時に村の者を呼び集めた
信長様の事だからどんなおとがめがあるかとビクビクして寄っていくと
「木綿に二十反こじきに取らせるぞ、その半分で村の者はこじきに小屋を建ててやれ」と、思いがけない言葉だった
そして隣の村の者にまで「麦が獲れた時は麦を、米が取れた時は米を少しでもいいから恵んでやれ」と、言いつけられたので、こじきは言うまでもなく中山の者まで涙を流さない者はいなかった


と、昔昔のお話です
信長様の心意気を感じます


常盤御前のお話
常盤御前は名高い牛若丸の母で大変な美人だったという

牛若丸が十六歳の時に元服をして九郎義経となった
義経が奥州に落ちたと聞いて常盤御前は我が子の後をおって少女を一人連れて都を旅立った
ところが何しろ世の中が騒がしい事だから悪い奴等は何処にも居た、熊坂長範という後に世にも伝わる程の悪党が居た
運悪く二人は山中の里で捕まって金を盗られ着物を剥がされ、その上助けておいては後々面倒だと殺してしまったのだ
村の者が哀れんで、ここに二人の亡骸を埋めた
その後義経が立てたのが今の碑だと伝えられている
長範はその後義経にバッサリやられたというが、何処でいつやられたかはハッキリとしない


悲しき物語で御座います

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