戦国女士blog

戦国大好きな歴女子が、歴史探索をしてきた記事を載せてます(・∀・)

竹中半兵衛閑居の地➖太閤七度通い

場所は岐阜垂井栗原山です

まず歴史背景の説明に入ります
家督を継いだ半兵衛は道三の孫である龍興の下に属し、稲葉山城下に居館を置きました
その頃に起きた事件と言うのが"半兵衛の稲葉山城奮取"である
半兵衛は稲葉山城に人質となっていた弟の久作の病気見舞いと称して十数名を従えて稲葉山城に入城し、龍興の家臣である斎藤飛騨守を斬った そして城外に待機していた安藤守就らの軍勢を城内に導き入れ、要所を固めて占拠します
稲葉山城奪取については斎藤飛騨守が半兵衛を屈辱した為とも、龍興の家臣、日根野備中守と舅である安藤守就が争い、それを救う為とも、城主龍興の愚行を戒める為ともいわれています
実は稲葉山城を奪取った半兵衛に美濃攻略に勤んでいた信長は、半兵衛を家臣にしようと試みるが断られてしまいます
稲葉山城を奪取後、半年程で城を退去した半兵衛は、隠居生活を送ったとされ、この栗原山の場所に閑居地を置いたのです
その間にも秀吉は何度も半兵衛の所に足を運び信長様の家臣になってくれとお願いをしに出向いたのだが何度も断られてしまいます
それはそうですよね、斎藤家に仕えていた半兵衛からしてみたら信長は敵!承知する訳がない
しかも、これからゆっくりとすごそうとしていたのにね
しかし、何度も通って来る秀吉の思いに心打たれたのか半兵衛は7回目でやっと秀吉の頼みを受け入れました(太閤七度通い)条件としては信長の家臣ではなく秀吉の家臣としてであれば仕えるとの事だったと言われています。この後は軍師として秀吉を支え数多くの戦で功績を挙げてきました
早くして病気で亡くなってしまった事はとても悲しく残念な事です😢

さて説明についてはここで終わりです

自分の話に変わりますが、ずっと前から行こうと思っていてやっと行けました 情報収集に垂井の観光協会の人に話を聞いてから向かいました
急勾配で足を滑らすから気をつけてと言われて言ってみたら、かなり急💦しかも獣避けの柵を開けて行かないといけないという…
ここまで来て後には引き下がれないので行きました
ガサッ🐗🐻💨‼️って音に敏感になりながら攻め登る事20分、説明板が有るので道に迷う事なく着けました。ようやく念願の場所に行けて大満足!
だが!有るはずの半兵衛閑居地の説明板が無い!辺りを探すとサカキの根本に倒れてました…立て掛けておく(-_-)
・説明板
栗原山
竹中半兵衛
重治公閉居地
推定記念植樹
平成十年四月吉日
垂井町文化財保護協会
栗原有志保存会

まだまだ終わりませんよ!
実はこの場所長宗我部盛親関ヶ原の時に陣を張った場所でもあり幟が立ってます 何でこの場所に⁉️って所なんです、関ヶ原合戦地から随分と東に有ります。しかも、この位置からだと関ヶ原の状況もわからない場所である
何故この場所に陣を張ったのかと言うと、大垣城方面への視界は極めて良く、主戦場を大垣方面と想定して東を向いており、関ヶ原での合戦を想定していなかったと考えられています

こうして足を運んで見ると色々な歴史背景が見れて面白いですよね!

 

読んで頂きまして有難う御座います😊

 

f:id:kaori3211:20200116231259j:image看板を見落とすとわからなくなります
f:id:kaori3211:20200116231247j:image獣避けの柵の中に入って50メートル程の所に看板
f:id:kaori3211:20200116231250j:imageひたすら登って歩く💦
最初は道幅も広いですが途中から狭く急勾配になります
杖がないと滑っていってしまいます
f:id:kaori3211:20200116231256j:image20分ほどで到着!ここが半兵衛閑居地です
f:id:kaori3211:20200116231253j:image栗原山 竹中半兵衛重治公閉居地 推定記念植樹
平成十年四月吉日 垂井町文化財保護協会 栗原有志保存会
雨が降ってたので濡れて見にくいです
f:id:kaori3211:20200116231302j:image長宗我部盛親の幟
f:id:kaori3211:20200116231244j:image
f:id:kaori3211:20200116231241j:imageこれを見てわかる通り関ヶ原合戦地から随分と東に有り、南宮山で関ヶ原が見えません