少し前に大谷吉継の首塚を紹介しましたが 今回は小西行長 関ヶ原のその後を紹介します
小西行長も 同じ道を辿り逃げたのです
関ヶ原から古屋に抜ける峠を越え揖斐春日村にある中山地区に小西行長は身を潜めました
どのような経緯で最後を迎えたのか…
今は関ヶ原から春日村に抜ける道は工事の為古屋には抜けれない
そこで揖斐池田から春日村に入り中山地区まで向かった
本当にこんな場所に家があるの?と、言わんばかりの道を走り抜けて行くと集落があった
そこには中山観音寺というお寺があり 行長は この寺に匿われていたのです
ある時 行長は村の何者かの密告で竹中重門に捕えられました
中山の村人に裏切られたと思い込み「私を裏切ったこの村を三度焼き払ってくれようぞ!」という呪いの言葉を残しました
そのせいなのか村で度々火災が起こるようになったことから祟りを恐れた村人は行長の刀を埋めて墓をつくり 観音寺に位牌を収めて供養しました
その後 旅の僧が「私を仏として扱うのは不快である」という行長の声を聴いいたため 行長の墓所に社を建てて「小西神社」として祀ることになったそうです
毎年2月28日ココでは小西行長の祟りを沈めるために大々的ではないですが お祭りが行われています
普段は観音寺は和尚様不在の為 閉められているので事前に和尚さんに電話をしておくと小西行長の話と位牌を拝ませてもらえます
私の場合は地域のおばあちゃんが偶然にも お寺に居た為に色々話を聞く事が出来 位牌も拝ませてもらえました
肖像画もここで保管されていますが
この時は関の博物館で関ヶ原展があり そちらに持ち出されて見れなかったので 博物館に行き見に行きました
ここで行長か見つかる事なく上手く逃げれていたのであれば 行長の歴史はかわりましたね
と、まぁ2年前に行った時はこんな投稿文を
を書いたのだ
しかし!最近2回目の訪問で私が思った事は
関ヶ原から中山観音寺に隠れていたのを村人の密告で捕まってしまった行長だったが 、実は自らが我が身を差し出してくれ!と、お願いをして捕まったと言う話も別にあるのだ。
よく思えばキリシタンであった行長が人を恨んだり祟りだのするのだろうか⁉︎
キリシタンとは右の頬を打たれたら左も差し出す…なんていいますが
今回の関ヶ原でも本当は人と人との殺し合いを望んでいなかったのではないかと思うのです。
逃げては来たけど村人に迷惑がかかるから我が身を差し出してほしい…と、言ったのが本当ではないのか、そう思ったりします。
これはあくまでも私の考えなので真実はわかりません。
ただ ここに行長の小西神社がある事は間違いなく、そして逃げて隠れた事は事実である。
あんな酷い争いがあった戦乱の世とはうって変わり、今は静かに時が過ぎ行く場所になっておりました。
読んで頂きまして、ありがとうございます😊
小西神社中山観音寺小西行長のお位牌