戦国女士blog

戦国大好きな歴女子が、歴史探索をしてきた記事を載せてます(・∀・)

西美濃三人衆の1人 氏家ト全のお墓と戦死跡地

場所は岐阜の海津です
ト全は土岐頼芸斎藤道三→義龍→龍興に仕えたが龍興とは折り合いが悪かったとされており 以後は稲葉一鉄安藤守就と一緒に織田信長の家臣として仕えました

この三人を合わせて西美濃三人衆と言います
この頃に卜全と名乗ったと言われます

長島攻めでト全は川西(多芸山太田口)に柴田勝家らと共に布陣しました、織田軍が撤退する際に殿軍を務めたが5月12日に美濃石津郡太田郷安江村七屋敷で六角一族の佐々木祐成に討ち取られました 59歳卜全の最後である

随分と前から菩提寺は無いのかと調べてはいたが どうも見つからない
とりあえず 海津市役所に行き話を聞く事にした
聞いた内容としては ネットに書いてある事くらいしか情報は分からなかった

市役所で聞いて一つだけわかった事は 氏家ト全の事を調べていたお寺のご住職の名前と、その方が書いた物が少しである 

話を聞きたくてもその方はもう亡くなっていると言われた…
市役所を出て卜全のお墓に向かう!養老鉄道の線路の東にある。ほぼ田んぼだ…なんであんな場所にポツンとあるのか 寂しい場所だ

実は卜全の墓は元々違う場所にあり封土(土を盛ってある)の古塚であった その後何者かによって 宝篋印塔に五輪塔を交えて組み立てたお墓が建てられたのだ
明治になり川が近く洪水の際 堤防修理の為に この墓を運び 今の場所に移動させたのである

お墓に手を合わせ その後向かったのが 卜全の首を洗ったと言われる場所だ ここは 海津大橋を東に渡る手前の信号を右に曲がり道なりに少し行くと 右手に"ト全の澤"と書いた碑が建てられている
昔の住所名からして七屋敷と言われた場所であるので この辺りは屋敷が建ち並んでいたのだろうか と、思ったりもした そして "澤"と、書いてあるので ココに澤が有って 卜全の首を洗ったのだろうと 想像した
石碑には こんな事も書いてある[卜全戦死跡] ここで亡くなったのか…
胸が切なくなった…
ここにも手を合わせ 市役所で教えてもらっ"圓満寺"に向かい話を聞こうと思って行ったが 勿論 その住職は 亡くなったのでわからない…

その後寺を継いだ住職は歴史に興味が無く 全くわからないと言われた💦残念だがしかたない

西美濃三人衆の3人の中で菩提寺が無いのは氏家ト全だけである
もっと弔ってもらえる場所が欲しいところである 又手を合わせに来よう

 

今日も読んで頂きまして有難う御座います😊

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f:id:kaori3211:20200504182416j:image卜全戦死跡地
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石山本願寺軍師 土岐蔵人 (善永寺)

場所は岐阜 本巣文殊です
本巣の文殊という場所は とても歴史深いお寺が沢山あり、その中でも戦国時代に関わる話が沢山残っています
今日はその一つを紹介しましょう
岐阜県山県市にあった大桑城が斎藤道三によって落城すると 美濃の守護大名であった土岐頼芸は現在の本巣市に逃れ土岐氏も衰退していきました
その土岐氏の一族であった土岐蔵人が本巣市文殊に移り住み本願寺顕如上人に帰依します
本願寺織田信長石山合戦が始まると土岐蔵人は本願寺の軍師として活躍したといわれ石山合戦が終了すると本願寺の陣鐘(麒麟鐘)を顕如から与えられ山県市にあったお寺を本巣市文殊に移して再興し善永寺を開創しました

土岐氏本願寺の軍師で有った事が ここで新たにわかりました
寺の家紋は桔梗です

 

今日も読んで頂きまして有難う御座います🥴

 

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f:id:kaori3211:20200429080555j:image顕如から与えられた陣鐘
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信長の家老 平手政秀を巡る

爺なくして信長の今は無いと言ってもよい人でした
名古屋市西区にある"東雲寺"に政秀の首塚が有ると言う事で伺った なぜ首塚?って謎だった 自分で自刃をしていて しかも戦にも出ていないのに首を切る必要があるのか?不思議だった とりあえず東雲寺に向かう

東雲寺は元々織田家ゆかりの寺である その事もあり ここに有るのかと そのあたりは納得! 手を合わせに向かうと政秀の五輪塔があった 今日は暑いので「政秀殿 今日は暑い日でありまするな」と声をかけて水を五輪塔にかけてあげました(訪問時は夏だったから)
その後 住職の家に向かいインターホンを鳴らす 相変わらずアポは取っていない… 奥様が出てきてくださいました

なぜここに首塚があるのか聞いてみた 「詳しい事はわからないのよ、ただ先代の住職から 平手政秀の墓だと聞いていて知っているだけなの」との事だった 書かれたものも何も無いが伝承としてはある そういった話だった それ以上の事は分からず ここを後にする
その後向かったのは"平手政秀屋敷跡"である 場所は名古屋市北区平手で 志賀公園の中にある ここで政秀は自刃していると言われている たくさんの千羽鶴が有った 今だに訪れる人が多々居るのでありましょう ここでも手を合わせてきた なんとか詳しい話を聞けないものかと市役所に向かう やはり出て来る話は ネットに載っている情報だけしかない
あとは 信長が政秀を想って建てた"政秀寺"に行くしかないと足を運んだ ここで政秀寺のご住職に聞く 東雲寺の政秀の首塚は なぜ東雲寺にあるのか そして なぜ首塚なのか やはり出てきた言葉は「はっきりとはわからないのですよ」でした 「ただ 自刃したのが東雲寺だとも言われてるんですよ」と、え! 政秀屋敷でなく東雲寺で! ん! それなら墓が有っても納得はできる が、なぜか首塚?ってのが気になる 一説では殺された説もある もしかしたら 信長に対して見せしめの為に首を切って送ったのか 考えたらキリがない💦
でも気になる💦

ついでに政秀寺のご住職が 政秀寺の事を聞かせてくれました
政秀寺が一番最初に有った場合は小牧で その後が清洲 そして今の場所 名古屋市中区なんだとか 政秀のお墓は政秀寺には無い 千種の平和公園にある 小牧と清洲の頃は政秀寺にお墓は有ったのですか?と、聞いたら 有ったのだそうです やはり生で話を聞かないと知らない事が聞けていい!

政秀が自刃するまでの経緯
信長公記によれば政秀は信長と次第に不和になり信長の不真面目でうつけな様を恨んで自刃したとされてます 不和の原因を作ったのは政秀の長男五郎右衛門で信長が五郎右衛門の持っている馬を所望したいと申したとき 五郎右衛門は「自分は馬を必要とする武士だから馬を献上するのはお許しください」と言って拒否したのを信長が逆恨みしたのだとされる

政秀が亡くなった説はそれ以外に色々ありますが…

小さい時から爺として信長に仕え どんな時も側にいた政秀を失ってしまった信長の悲しみは計り知れない事でしょう

 

今日も読んで頂きまして 有難う御座います😊

 

2019年7月訪問

 

f:id:kaori3211:20200426211726j:image東雲寺
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f:id:kaori3211:20200426211730j:image平手政秀の首塚
f:id:kaori3211:20200426211718j:image平手政秀屋敷跡
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f:id:kaori3211:20200426211714j:image政秀寺
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お鳥屋敷"豊臣秀次の秀次長屋

大垣城の、南西の堀の位置にあたる場所に、昔大垣城に在住していた頃の豊臣秀次(当時は三好秀次)の屋敷がありました。
後に大垣城に戸田氏が入城し、その場所は戸田下屋敷になりました。
戸田氏庸の時代になると、その下屋敷の鷹狩りを身近で楽しみたいと言う事で秀次長屋を壊し堀より水を引き入れ狩り場にするよう御側用人の大橋軍兵ヱに申し付けました。
秀次と言えば最後は秀吉に切腹を申し付けられ身内まで三条河原にて処刑されてしまったという最後を迎えています。
その秀次の屋敷を壊せと言うのだから軍兵ヱはおっかなびっくり、秀次の祟りを恐れ、何としても殿様の狩場作りを思い止まってもらおうとお願いしました。
ついに思いあまって、迷信とは言え、もしもの事があってはと戸田家に患いのないようにと、意を決し軍兵ヱは切腹して諫めるつもりで自害してしまいました。
その後、狩り場工事は完成し「お鳥屋敷」と、なったのです。
もちろん氏庸は軍兵ヱの命がけの忠節を賞で、その子孫七郎を召抱え小姓にされたといいます。

軍兵ヱの必死のお願いも切腹して祟りを諫めるといった形となりましたが、当時も悲惨な死を迎えた武将の祟りはあると信じていたのですね…

さて、昔お鳥屋敷が有った場所を探索してきました。今は影も形もありません(-_-)…
狩り場だったの?と、思ってしまう程整地されてしまっています

でも、この場所にはそんな歴史が残っています

今日も読んでいただきましてありがとうございます😊

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f:id:kaori3211:20200423081814j:imageこの堀から水を引きました
f:id:kaori3211:20200423081811j:image屋敷跡は跡形もありません

 

 

この堀から水を引きました

 

三成の弟の行方は…石田善能寺

場所は岐阜揖斐大野町です
石田善能寺は 石田三成の弟の光重の子孫の方が代々住職を務めて来られました
善能寺がある寺内町の城郭伽藍をはじめとして大野町の城や郷土史について研究しておられるのは ご住職の息子さんの石田明乗氏であります
ただ今住職は15代目にあたります
氏によれば善能寺伝では第一代の住職であった横田祐尊は近江国の出身で寺内の近藤祐尊に入婿し元は天台宗の勝慶寺であったものを慶長8年(関ヶ原の戦いの3年後)に浄土真宗善能寺に転宗したということです
この横田祐尊は石田光重の長男の光吉であったと考えられます
石田三成の弟である光重はもとは豊臣秀次の家臣でしたが秀次切腹の後 世の無常を感じたためか近江の横田村に隠棲します 弟が秀次に仕えていたという事実をもってしても秀次切腹に三成が加担していたというのは冤罪である傍証の一つに挙げられます
光重の息子の光吉の時代になって横田と姓を換え美濃国に移り寺内の寺に入り その娘と結婚して住職になります
徳川による石田残党狩りが厳しい時代にあって寺は格好の隠れ場所になりました もっとも江戸時代は単に善能寺という名前であり石田という名が付いたのは明治になってからでした
揖斐の池田町にも石田姓の集落がありその方々も石田一族に違いないとご住職は言っておられました
住職さんに話を聞く事が出来て良かったです
「あんた女1人で歴史巡りしとるのかね!大したもんやなぁ。学生さん?今日は学校休み?」
 申し訳ない学生ちゃいます💦💦

まだまだ歴史は至る所に残っています それを探るのが楽しくて仕方ありません ワクワクしますね

 

今日も読んで頂きまして有難う御座います😊

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石山合戦"教如上人住居跡

場所は岐阜 郡上明宝下小倉です

意を決して行きました獣怖かった💦
とりあえず本題に入る前に教如上人の経緯から話ます
織田軍に周囲を包囲された本願寺は籠城が続く中 毛利からの食料供給の道も断たれ顕如上人はついに降伏を決意します
その2年後には朝廷の仲介によって和睦が成立 顕如石山本願寺を退去することとなりました
ところがこれに反対したのが当時23歳の教如上人でした

本願寺から退去した我々一行を信長は攻めるかもしれない。そうなったらもはや逃げ場はなくむざむざと殺されるしかない」

そう考えた教如は和睦を決めた父顕如と対立!
本願寺内部は和睦開城派(顕如)と籠城抗戦派(教如)の真っ二つに割れることとなりました
結局 顕如本願寺を退去 紀伊和歌山県)雑賀鷺森へと逃れます
一方、抗戦派の教如はその後も本願寺に留まり各地に抵抗を促す檄文を発し続けました
しかし その状態も長くは続かず ついに教如本願寺を退去
本願寺退去後 教如は鷺森の父顕如を訪ねますが信長に鷺森攻めの口実を与えることを危惧されたのか面会どころか顕如から勘当され本能寺の変で信長が命を落とすまでの2年間教如は各地を流浪潜伏の日々を送ることとなります
(以上参考文書により)

そこで流浪するにあたり 何処を教如は漂っていたのか…
実は岐阜の郡上明宝の気良といわれる場所に"教如上人住居跡"があるのです
話では 石山合戦の時 教如上人が信長様からの害を避ける為 当時 気良の住人 八代八衛門を頼って 此処まで逃れ 山上源太夫と名を変えて この下小倉の地で3年すごされたのだと言われているのです

八代八衛門と教如の関係を調べたところ
美濃国 船橋の願誓寺に身を寄せた教如は更に飛騨の国境遠藤家門徒を頼り郡上の美並村刈安の乗性寺に避難され43日間留まって その後北に入った山奥 明宝下小倉の信者 八代八衛門を頼った事から2人の関係は繋がりました

[鷺森旧事記より]
1580年(天正8年)
美濃国岐阜ノ城下船橋願誓寺(岐阜市西野町3丁目)ヘ立寄頼給ヒシカバ、願誓寺大ニ驚キ所コソ多キニ、信長ノ城下へ来給フ事、夏ノ虫ノ飛テ火ニ入ルカコトシ。近頃卒爾ノ至ナリトテ、其夜郡上郡飛騨国国境八代八右衛門ト申願誓寺門徒ノ所へ深ク忍ハセ奉り」

 

そして話にも出てくる"乗性寺"では この時 ある方と教如は出会ってます
それは山内一豊の妻 千代の母です
山内一豊の妻 千代の産まれた所は滋賀県米原市にもありますが、千代が産まれた所は郡上にもあるのです
千代の母は郡上八幡城初代 遠藤盛数の妻で東常慶の女子であります
郡上市慈恩寺に伝わる遠藤家の系図に遠藤盛数の娘が山内一豊正室であるとの記載があった事によります
遠藤氏の菩提寺である乗性寺
教如と出会った千代の母は教如から「照用院殿釋友順」の法名を貰います そして其の付き人で埴生太郎左衛門高照も「西教房照山」の法名を貰い友順尼(千代の母)の最後を見取りさらに乗性寺17世を継いだと言われいます
乗性寺には千代の母のお墓もあります

話は長くなりましたが 教如上人住居跡に行くにはゲートを開けて行かないと行けない 勿論 このゲートは獣が外に出ない為の柵がしてあるからなのだ 女1人で行く場所ではないのはわかっているが 来たからには行くしかない
台風の影響もあり 木々は倒れ 随分と荒れ果ててる、細い道を登り、登り切って少し下った場所に教如の住居跡がある お墓は 後世に建てられた教如の墓である その左手前横には教如が使った手水鉢があります これは本物だそうです
随分と人も来て居ないようなご様子…
獣捕獲用の檻を横目に早々とそこから退却!

人目に付かない場所にある事で 敵から身を守る為に備えた住居である事がわかりました

信長政権の時は郡上 豊臣政権では揖斐 教如は逃げ延びる先が美濃である事から 門徒がいかに美濃に多かったのかがわかります

 

読んで頂きまして有難う御座います😊

f:id:kaori3211:20200418080707j:imageこの柵を開けて入ってきます
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f:id:kaori3211:20200418080643j:image乗性寺
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平塚為広の元垂井城跡

場所は岐阜不破郡垂井町です

実は平塚為広の垂井城は今碑のある場所ではなく、元は違う場所でした。

垂井城から北西の位置に"長谷氏屋敷跡"があるのですが、そこが、元垂井城だと言われていた場所なんです。
平塚為広は美濃の出身ではないので、いつ美濃に来たのか、いつ頃から垂井城に住んだのかハッキリとわかっていません。
慶長5年に入城と書いてあったりするが…そうなると、ほんの少ししか住んでませんね(-_-) 謎です。

元々垂井城は長屋氏の城であったので、その屋敷を改築して為広が住んだと思われます。城と言うよりは屋敷ですね。専精寺に今有る垂井城の碑は、後世に為広の子孫の方が色々調べた結果、ここが本当の場所ではないのかという事で、ここに碑を立てたのだそうです。
地図を見る限りでは、長屋氏屋敷跡と碑の有る場所はそんなに離れていないので、ここ一帯が垂井城であった。私の結論からはそうなりました。

平塚為広は、大谷吉継との友情話で戦国好きの中では義を重んじる男として大人気です!
そんな為広の、こんな歴史の場所もありますよ!を、紹介させてもらいました

 

f:id:kaori3211:20200417080122j:image長屋氏長屋敷跡この場所に垂井城が有ったと言われる
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