戦国女士blog

戦国大好きな歴女子が、歴史探索をしてきた記事を載せてます(・∀・)

お鳥屋敷"豊臣秀次の秀次長屋

大垣城の、南西の堀の位置にあたる場所に、昔大垣城に在住していた頃の豊臣秀次(当時は三好秀次)の屋敷がありました。
後に大垣城に戸田氏が入城し、その場所は戸田下屋敷になりました。
戸田氏庸の時代になると、その下屋敷の鷹狩りを身近で楽しみたいと言う事で秀次長屋を壊し堀より水を引き入れ狩り場にするよう御側用人の大橋軍兵ヱに申し付けました。
秀次と言えば最後は秀吉に切腹を申し付けられ身内まで三条河原にて処刑されてしまったという最後を迎えています。
その秀次の屋敷を壊せと言うのだから軍兵ヱはおっかなびっくり、秀次の祟りを恐れ、何としても殿様の狩場作りを思い止まってもらおうとお願いしました。
ついに思いあまって、迷信とは言え、もしもの事があってはと戸田家に患いのないようにと、意を決し軍兵ヱは切腹して諫めるつもりで自害してしまいました。
その後、狩り場工事は完成し「お鳥屋敷」と、なったのです。
もちろん氏庸は軍兵ヱの命がけの忠節を賞で、その子孫七郎を召抱え小姓にされたといいます。

軍兵ヱの必死のお願いも切腹して祟りを諫めるといった形となりましたが、当時も悲惨な死を迎えた武将の祟りはあると信じていたのですね…

さて、昔お鳥屋敷が有った場所を探索してきました。今は影も形もありません(-_-)…
狩り場だったの?と、思ってしまう程整地されてしまっています

でも、この場所にはそんな歴史が残っています

今日も読んでいただきましてありがとうございます😊

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f:id:kaori3211:20200423081814j:imageこの堀から水を引きました
f:id:kaori3211:20200423081811j:image屋敷跡は跡形もありません

 

 

この堀から水を引きました