明智光秀は 坂本城主の頃 信長様の意を受けて 近江平定に腐心します
その中の一つは琵琶湖水路の制圧 水軍の確保である
光秀は琵琶湖の湖上権を掌握してきた堅田衆の堅田水軍を傘下におき 囲い船の造船を命じると共に浅井攻めでは 軍船で海津 塩津を攻めて活躍し 足利義昭の命で敵が攻めて来た時にも 湖上からこれを攻め破り 滋賀郡の平定に成功しました
「信長公記」によれば信長様が岐阜城を居城としていた時 岐阜から京都への往還は 佐和山城から坂本城へ船で渡り今道超えで京都に入るルートをとっていた 安土築城後も信長様は坂本城の往還に船が利用されています
城の構造を水城とした事といい光秀は琵琶湖の道を軍事に巧みに取り入れた戦国武将といえます
こうして堅田水軍の活躍は光秀にとって大きな力となった事がわかります
堅田には信長様の出城もあったのだそうです
今は堅田陣屋になってます
浮御堂から見た堅田陣屋
この場所から船を出してました。昔は幅も広がったのでしょうが…
堅田陣屋です
浮御堂