戦国女士blog

戦国大好きな歴女子が、歴史探索をしてきた記事を載せてます(・∀・)

古田織部の織部焼を探索

場所は岐阜土岐市です
古田織部と言えば産まれは美濃国(岐阜の本巣)の山口城です
本名は古田重然(しげなり)と言います
織部の父は茶人であったのだが 織部自身は茶に興味が小さい頃から有った訳ではなく、どちらかと言うと嫌っていたとも言われます。
本格的に茶に興味を示し始めたのが30代後半で、それまでは信長、秀吉、家康に使え武将として活躍していました。
織部の武将としての役割というと使者です。敵方に大将の言葉を伝えに行くといった なんとも命がけの仕事でした。ですが織部は大役を果たし 大変活躍しました。
茶の道に進んだきっかけは、織部の奥方の兄である中川清秀が茶人であったので、その事もあり周りに進められてやってみたら、素質があると言われ自信を付けた織部は ドップリと茶の道に入っていったのだそう。
その頃千利休に弟子入りしたと言われます。遅がけの弟子入りとなりましたが 千利休は非常に織部を可愛がり 織部の茶の腕前を買っていたようです。 いつも利休はこんな事を織部に言ってました「人とは違う事をせよ」と、その事も有り織部は自分なりの茶の道を進む事にしました。
織部は「傷が付いてない物は面白くない」と言い茶の茶碗を傷を付けたり、歪ませたり、違う物と割ってくっつけてたり、と自分なりの独創的な美を作り出しました 。
織部の茶会に呼ばれた者達は 何とも変わった形をした茶碗を出され 驚き「これは ひょうげた形をした茶碗だ」と言い そこから "へうげもの"と言われるようになったそうな、勿論 そんな茶碗を出す織部の事を"へうげもの"と、言っていたのかもしれませんが
千利休が秀吉の命令で切腹をさせられる事になり、その後、茶の天下人となった織部は茶人としての評価は高く織部が鑑定して良いと思った物は 高く売れたのだそう。お金を出してまで鑑定をしにくる者が居たと言われるのだから相当であったと思われます。どんな粗末な物であっても織部が良いと思った物は金銀でうれるのだから 凄いですね!
各地に居る職人にどんな茶碗が欲しいとは指示は出さず作らせて、その中から個性的な物を選んで使っていたとも言われます。

武将織部の話に戻りますが 家康に仕えていた織部が、大坂の陣で 豊臣側に内通し謀反を企てたと疑われ家康から切腹を命じられて亡くなってしまいます これが織部の最後です…
(実際なぜ切腹させられたのかは、はっきりとはわかってはいません…)

"織部".と言う名前について
壮年期に朝廷から従五位下織部助」の官位に叙任されたことから古田織部とその後名乗ったと言われます

"織部焼について"
陶器の織部焼古田織部の名前に由来してる事はご存知かと思われます。しかし、織部焼が生産されていた当時は名もなく、さらには織部焼を含め、美濃で焼かれた物が全て瀬戸物として流通していました
織部焼織部と呼ばれるようになったのが江戸時代中期の事です
古田織部の好みを反映したやきものとして、後世茶人が織部焼と名付けられたものと考えられています。やきものに過去の時代の人の名が付けられるほど、古田織部の活躍が伝えられていた事がうかがえます。

ま、こんな感じで、とりあえず織部焼きを作った場所である土岐市に向かいました。土岐市には当時の窯と発掘された織部焼きが展示されている"織部の里"があります。ここに古田織部が足を運んでいたかと思うとワクワクしました^_^
展示室には千利休の所持の"四方仏の蹲踞"も有ってビックリ!来て良かった☺️

改めて織部焼に興味が深く湧きました。

f:id:kaori3211:20200729140413j:image古田織部の漫画へうげもの
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f:id:kaori3211:20200729140434j:image元屋敷窯

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f:id:kaori3211:20200729140409j:image千利休所持 四方仏蹲踞

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f:id:kaori3211:20200729141005j:image出土された織部焼