戦国女士blog

戦国大好きな歴女子が、歴史探索をしてきた記事を載せてます(・∀・)

犬千代[前田利家]生誕の地を巡る(速念寺)

場所は名古屋市中川区です
まず向かったのは利家が産まれたと言われる前田城(速念寺)です
本堂をよく見てください! 実は利家の兜をデザインされて建てられました まさに利家の兜‼︎
いつ頃建てたのかご住職に聞くと1964年の東京オリンピック後で 以前の本堂は別に燃えてしまった訳ではないとの話でした
実は この本堂のデザインは安土城復元図を手がけた有名な内藤昌さんだそうで これ又ビックリ! 中も見せてもらいましたが斬新でした ただ耐震強度は弱いとの事で地震が来ると倒壊する恐れがあるとの事 是非にこれは残ってもらいたい!
利家のお墓はあるのか聞いたけど ここには無く お位牌と利家が聖徳太子の御作と信じ大切にしていた阿弥陀如来像が 速念寺に寄進されて有るとの事で早速 お願いをしてお位牌に手を合わさせていただき阿弥陀如来像を見せてもらいました
真正面に立つ阿弥陀如来像は 1メートル?くらいの大きさでしょうか その横には利家のお位牌があります 胸が高鳴る!
阿弥陀如来像の足元にある蓮の花台は朽ちて新しく作り直したとの事で 当時の物は奥にしまってあります 保存状態が良くないので 写真に撮ったのを見せてもらいました 見ていただくとわかると思いますが 写真右文字は本尊聖徳太子御作 左文字は前田又左衛門利家と書いてあります これぞ本物!

自伝についてですが 利家の出生地については この前田城で生まれ7歳の時に荒子城に移ったとされています
境内のあちらこちらに前田家の家紋梅鉢紋を見る事が出来ます

撮影許可承諾済みです^_^

いいご住職さんで良かった(//∇//)

f:id:kaori3211:20200715074910j:image速念寺(前田城)
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f:id:kaori3211:20200715074925j:image前田利家兜デザインの本堂
f:id:kaori3211:20200715074906j:imageご住職に扉を開けてもらえるのを待ってます ワクワク
f:id:kaori3211:20200715074902j:image利家の阿弥陀如来像です 足元の蓮の花台は新しく作り直しました
f:id:kaori3211:20200715074915j:imageこれが以前の蓮の花台です 朽ちてますね
文字が見えます
右 本尊聖徳太子御作
左 前田又左衛門利家
f:id:kaori3211:20200715074929j:image本堂の中

 

 

"春日神社"石田三成の祈願所

場所は滋賀県米原市世継

慶長5年、石田三成が挙兵して美濃に出立する際、この春日神社で戦勝祈願をし一株の藤を自ら植えたと伝わる
又、三成の家紋である"下り藤"もここからのものだと考えられる

参拝者用の駐車場は無いので

近くに世継会館があるので、そこに停めさせてもらうと良いかと思います

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"信玄公はここで終焉したのか…"福田寺

場所は愛知県設楽町田口です
信玄公の終焉の地の場所は何箇所か有りハッキリとはわかってはいない 

その中の一つに福田寺がある
その福田寺に行き話を聞いてきました 
元々福田寺は信玄公の宿泊地であり、戦が有ると、ここによく宿泊していたのだそうだ 
そんな折"野田城の戦い"にて信玄公は容態を悪くし福田寺にて何日か療養をしたのだが容態が悪化して息を引き取ったのだそう
死因については
・病気 
・鉄砲の流れ弾にあたった 
・病気と鉄砲の弾
これら三つである

病気の話はよく知られていますが 鉄砲については説は出てますがハッキリとは断定はされていない
ここで、鉄砲説についてお話をしましょう
・笛の名手、松村芳休が毎晩笛を吹いていると、その音色に魅入られた信玄が毎夜笛を聴きに外に出て来ていました。それを知った敵方はこれを狙って2月9日の夜、笛の音色に寄せられて出てきた信玄を定盈の家臣で鉄砲の名手だった鳥井半四郎に撃たせたのです。見事信玄に命中し家中の者は大騒ぎになり信玄を鳳来寺に運びそこで御祈祷をしに行き福田寺で療養したのです

福田寺の御住職が面白い話を聞かせてくれました。

ある医者の先生から連絡があり鉄砲説はあり得るかもしれないと言われたのだそう
その理由としては鉄砲の弾が体内に入ると菌が体を蝕み最後は死に至るのだ
そして症状の一つに歯が抜け落ちていってしまうというのです
信玄は実際に歯が8本も抜けてしまったと言われてます
病気を患って、そのうえ鉄砲の弾を受けたとあらば尚更死を早めてしまいます

この話を聞いて鉄砲説も嘘では?といいきれませんね

ここで一つ言っておきます

御住職曰く福田寺で亡くなったと説は昔から有るが、それが本当にここで亡くなったとはハッキリとは言えないとの事、資料も燃えて無いとの事で今は先祖代々話として受け継がれてきたという事です
そして福田寺にある信玄の墓に遺体はあるのか?との事について話も聞きました
この信玄の墓はもう一つ呼び名があり鎧塚と言います。鎧だけに信玄公の鎧が埋まってるのではないかとの事なんです
遺体は山梨に運ばれてしまっているので、お世話になった福田寺に信玄公の鎧をかわりに埋めさせ墓を作らせたのではないかと言われました。
もちろん鎧、もしくは信玄公の身に付けていた物、分骨されたお骨?など色々考えれますね

墓の場所も今の位置に元々有ったのではなく、今有る池の中心の祠の場所に有ったそうです
池をつくるのに一度山の上に墓を移動させ、今の場所に移ったのだそう
その時に何か出てきたのかは今の御住職はわからないと言われました

福田寺で調べられた資料を頂きました。その中に『野田戦記』『鳳来寺由来』に書かれていた事が載ってます。そこには"信玄公は福田寺にお亡くなりになる"と書いてあります
読んでみてくださいね

設楽原歴史史料館には その時使われたとされる火縄銃が展示してあります[信玄砲]

さて、真実はいかに!

 

今日も読んで頂きまして有難う御座います😊

f:id:kaori3211:20200706221652j:image福田寺
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f:id:kaori3211:20200706221713j:image武田信玄公の墓
f:id:kaori3211:20200706221704j:image馬場信春殿の墓
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f:id:kaori3211:20200706221708j:imageこの池の中心に有る祠の辺りに元御墓はありました

f:id:kaori3211:20200706222129j:image福田寺の御住職から頂いた資料です
f:id:kaori3211:20200706222125j:image信玄砲

 

 

関ヶ原合戦 長束正家陣跡

西軍に与した正家
毛利秀元吉川広家と共にに南宮山(垂井町)に布陣し合戦前には浅野隊と南宮大社付近で交戦します。池田輝政と銃撃戦をしたが、広家の妨害のため、秀元や長宗我部盛親ら同様に本戦に参加できず、西軍が壊滅すると撤退します。このとき島津隊の撤退を助けるため道案内に家臣を遣わしたとも言われます。どんな時でも気遣いの出来る男だったようです。
もう少しどのような人だったのか説明します。正家は三成のように頭脳明細で秀吉の家臣として事務的処理、財政など様々な分野にて活動をしていました。九州平定や小田原征伐では兵糧奉行として兵糧の輸送、兵糧攻めなどで活躍し、頭の賢さを本領発揮しています。
家康がそれを見て自分の奉公衆に「奴を見習え」と、言い学ばせた程だったそうです。
槍働的には…どちらかと言えば功績は挙げておらず家臣に任せていたようです。この辺りは三成同様ですね…
本多忠勝の妹である栄子を正室に迎え、半右衛門助信が誕生しています。
関ヶ原戦場離脱後は自分の城であった水口城に戻ってこれたが、その後池田長吉によって本領安堵を約束するから城を明け渡すように言われ、承諾して城を明け渡たすと、約束は守られるどころか騙されて拘束され切腹させられてしまいます。正家39歳でした。首は三条橋に晒されました。
妻の栄子も同じく命を取られてしまうという悲しい最後でした。

その後、姫路城主となった池田輝政ら池田家の妻子に相次ぐ不幸が起こり、これを「長束正家の祟りだ」と言われたりと…

さてはて、その事実はいかに…

地味な武将ですが、地味に秀吉の力になり頑張ってきた武将です

 

今日も読んでいただきまして有難う御座いす😊

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福島正則の足跡を辿る

場所は愛知県あま市甚目寺です

猛将と言われた男 福島正則
豊臣家に仕え 数々の武功を挙げてきました どんな時でも秀吉 秀頼の事を想い人生を賭けてきました
そんな正則の産まれし場所に行き 足跡を追ってきました

父は市兵衛正信 母は秀吉の叔母にあたる人で 正則の幼名は市松と言いう
幼少期は甚目寺観音の釈迦院で読み書きを学ぶ
12才の時 尾張国を襲った大地震により甚目寺観音が倒壊し 正則も復旧作業に加わったのだが 些細な事で大工と口論になり その人を殺めてしまったのです
正則は新居屋村の赤林家に匿われました
殺された大工仲間は騒ぎ立て正則を差し出すように赤林家に詰め寄るも 正則を渡さず命を助けました
そして赤林家の配慮により駿河の福島正光に預けられ教養されて 後に福島姓を名のることになります
(福島正光は秀吉の父弥右エ門の異母弟である )
その後 秀吉に従って中国攻めに山﨑合戦や賤ヶ岳で手柄をたてるなどして 成長していくのです

関ヶ原の合戦では加藤清正らと共に家康につき活躍 東軍についたのも三成に秀頼を託すには信用できず正則と三成は対立していました 家康なら秀頼様をどうにか助けてくれるだろうという考えがあったからこそ東軍につきました
だが その願いは叶わず 家康が天下取りとなります…
時代は家康に変わるも秀頼を守り続けるが 秀頼が亡くなり豊臣家は滅亡してしまいました
正則は広島城へ移って この地を治めるが 幕府の法を破り 広島城を明け渡してしまいます(福島正則の改易)
法を破った罪で信州に流され64才の生涯を閉じます

福島正則公誕生地碑
昭和初期まで村の祭礼を挙行する際は「およみ屋敷」と 呼ばれる土地から飾馬を出すなど神聖視される土地があった
言い伝えでは ここが正則の正家跡にちなんでという
残念ながら 今は宅地化されて面影はない

・菩提院 菊泉院
正則の菩提寺です
正則の死後 家臣 大野平内が従者3人を連れて正則の位牌や護物仏などを持ってきたのだとか それをこのお寺に奉納しました
位牌には 「海福寺殿前三品相公月末翁正印大工居士」の戒名が書いてあり 上部には家紋の中貫十文字が 左右には桐と巴紋が配されている
又 護持仏は安土桃山時代作の毘沙門天で正則の戦場の守り神である
その他に赤林家から正則の肖像画が寄贈されています
奉納者は 東海郡新居屋村 之地士 赤林助市郎長子 とある
更に同院所蔵の 福島正則公仰書之写は 福島丹波守地5名に宛てたもので 正則改易に関わるものである事が内容より確定できます

菊泉院のご住職様に 中に入って手を合わせていきなさい と、言われたので 入って位牌と護物仏に手を合わさせていただき肖像画も見せていただきました

甚目寺観音 仁王像
正則が読み書きをした寺で 後に正則は この寺に仁王像を奉納をします
奉納を示す墨書が 平成20年4月に始まった解体修理で見つかったそうです
腹部裏には墨書で 慶長2年 「奉 造立甚目寺仁王大檀那藤原朝臣福島左衛門大夫正則敬白」と書いてあり 正則が清洲城主時代に奉納した仁王像である事が判明しました
奉納理由については 朝鮮出兵から無事帰還した事への感謝や 秀吉の病気平癒祈願などが考えられると思われます

 

正則の足跡が こうしてここに根付いている事で 正則が生きていた証を感じる事ができました

f:id:kaori3211:20200701215430j:image福島正則公誕生地碑
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f:id:kaori3211:20200701215354j:image菩提院 菊泉院
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f:id:kaori3211:20200701215404j:image福島正則供養塔
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f:id:kaori3211:20200701215425j:image正則の御位牌と護物仏
f:id:kaori3211:20200701215359j:image甚目寺観音
f:id:kaori3211:20200701215438j:image正則寄進の仁王像
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前田利家出世の地を巡るpart2➖荒子城

場所は愛知県名古屋市中川区荒子です

利家はここで生まれたとされていますが 出世の地については前田城説もあるのでハッキリとはわかってはいません 幼少期をここで過ごしていたとは言われています
のちに利家の嫁となる お松であるが尾張沖ノ島村(愛知県あま市)の生まれで 林氏常信の娘として生まれました 当時は相当な評判の郷主であったため 沖ノ島に勢力を伸ばそうとしていた清洲織田家から睨まれておりました お松4歳の頃 荒子前田利家の父 利春が 林氏常信を訪ねた際に 麗しき幼女お松を見初め利家の嫁にしようと常信から貰い受けました 利家は織田家の手前 お松が常信の娘である事を伏せ 荒子の近くに住む篠原氏の娘として育てました
荒子城では 幼少期を利家とお松が過ごしていた事は間違いないでしょうね
そして利家21歳 お松13歳の時に 秀吉により婚礼がとり行われました
後の話であるが 前田家の家督は利家が継ぐはずではなかったのだが信長に前田家の家督を継ぐように命じられます 理由は利久に実子がなく養子が居たが病弱のため武者道少御無沙汰の状態にあったからだといいます その時に利家は荒子城主となりました

利家とは一体どんな人物なのか!
利家は加賀のイメージが強いが 尾張の若かりし頃の利家は信長の うつけ仲間として喧嘩っ早く異様な出で立ちで派手な長槍を持って歩いた為 皆が道を避けて歩いたと言われています 血気盛んで槍の又左衞門 槍の又左などの異名をもって呼ばれた程でした
利家は「犬」とも呼ばれ信長や秀吉からも可愛がられ犬千代の名もあります
稲生の戦いでは宮井勘兵衛なる小姓頭に右目下を矢で射抜かれながらも首を討ち取るという功績を上げたり 数々の功績を挙げ赤母衣衆筆頭に抜擢されたりと信長の与力となりました
一時期は信長から出仕停止処分になり浪人人生を歩みますが 復活戦とも言われる森部の戦いで信長に認められ戻る事を許されます

"森部の戦い"
https://www.facebook.com/groups/260548057428032/permalink/1283471195135708/

波乱万丈な人生を送っていますね!

こうして荒子時代は 信長に仕え数々の功績を残し お松という最愛の妻に守られながらすごしておりました

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